戦国時代

明智光秀と朝倉との関係を資料から迫る!本当に家臣だったのか?

今明智光秀はドラマ「麒麟が来る」の影響もあり、もっともクローズアップされている戦国武将ではないでしょうか?

中々魅力的な武将ですよね!

しかし経歴等良く分かってない部分が結構多い人物です。

例えば定説とされる明智光秀が朝倉義景の家臣だったという関係ですが、そうじゃないという見解も指摘されています。

そこで定説が正しいかどうかを歴史的資料から追及しました。

一緒に検証していただければ幸いです。

明智光秀と朝倉家との関係を資料から迫る

越前で居住していた事実の検証

 明智光秀は周知の如く美濃の土岐氏の一族でした。

その事は「立入左京亮入道隆左記」にも記されています。

明智家は斎藤義龍との戦で滅亡、明智光秀は牢人になり、朝倉家の領国の越前に行ったとされています。

では裏付ける資料をご紹介します。

時宗の同念上人の記録の「京畿御修行記」を見てください

京畿御修行記

惟任方(後の明智十兵衛の姓)もと明智十兵衛尉といひて、濃集土岐一家牢人たりしが越前朝倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住

この資料では、明智光秀と朝倉義景の関係は主従関係は無く、牢人として越前長崎弥念寺門前に10年住んでいると記載されています。

参考:朝倉義景はどんな人?性格が滲み出ているエピソードをご紹介

なお、この寺院に住み、寺子屋を営んで生活費を捻出していたのだそうです。

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長崎称念寺正門

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長崎称念寺境内

10年という数字は別として、かなりの長期間、越前で居住していたことは判断できますね。

しかし越前に来てから約10年、明智光秀と朝倉家との関係は無かったといえるでしょう。

ではその後はどうなのか?

それを見ていきたいと思います。

朝倉家の家臣と記してある資料の検証

朝倉義景と明智光秀は主従関係にあったと記載している資料には、明智軍記があります。

必要な所だけ抜粋して記しますね!

明智軍記

明智城に斎藤義龍軍の攻撃を受けた光秀は、なんとか城を脱出して越前に赴き、鉄砲の技術をもって朝倉義景に召し抱えられる

はっきりと明智光秀が朝倉義景の家臣という関係であったと記されていますね!

しかしこの明智軍記は正しいことが書いていない資料として有名です😣

そのまま信じることはできません。

後項でご紹介いたしますが、朝倉家の家臣であった可能性があるという資料もありますので、一緒に検証いたしましょう!!

朝倉家以外の家臣だったと記してある資料の検証

足利家の家臣

まず足利義昭の家臣だったとする説の根拠としている資料に、「光源院殿御代当参衆足軽以下覚書」があります。

・同資料後半は永禄10年(1567)2月から永禄11年(1568)の5月までの資料である。

・後半部分は足利義昭が上洛を目指し、越前に滞在していた時期と目される

・後半部分の「足軽衆」の記載に、「明智」と記されている。

・この明智は光秀である可能性がある。

この時期既に明智光秀は、足利義昭の家臣だった可能性がありますね。

細川家の家臣

また、山崎の戦い直後に書かれた「多門院日記」という資料には次のように描かれています。

天正十年(1582)6月17日条に、「細川ノ兵部大夫(細川幽斎)カ中間にてアリシヲ引立之

この資料を見ると、細川幽斎の家臣だったと書かれています。

ただ細川家の中間だったと確信するまでの強い証拠にはならないと思います。

明智光秀と朝倉家の関係を示す田中城籠城戦

明智光秀はいったい誰の家臣だったのでしょうか?

次の資料を見てみましょう!

永禄9年(1566)10月20日に坂本で筆写された医学書「針薬方」(米田文書)に注目すべき記述があります。

ちなみにこの記述が明智光秀が史書に出てくる最初の記述とされています。

内容

・「セキソ酸 越州朝倉家之薬」の原料、調合等

・「明智十兵衛尉、高嶋田中城籠城の時口伝也

意訳すると、明智光秀は朝倉家で使われている薬の原料、調合等を知っていて、その情報を高嶋郡田中城籠城の時に「沼田勘解由左衛門尉」という人物に話したということです。

この朝倉家で使われている薬の詳細を明智光秀が知っていることに朝倉家と何らかの関係があった可能性をうかがわせます。

更に永禄9年以前に書かれたものであり、その時明智光秀は越前にいたはずですから、朝倉家の家臣として籠城していた可能性がありますね!

しかしそれは足利家の家臣だったという説にも当てはまります。

米田文書の筆者:米田貞能は後に細川家の家臣となりますが、この時期足利家の家臣でした。

このことから足利家の家臣だった可能性も否定できません。

また田中城ですが、六角氏の流れを汲む佐々木氏の一族の田中氏が治めていました。

この関係から六角氏の家臣だった可能がうかがえます。

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田中城跡

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田中城 かなり険峻な地に築城されていたんですね!

更に織田信長が元亀元年(1570)に朝倉氏を攻撃するために田中城に逗留したという記録(信長公記)があります。

この記録から織田信長の家臣として籠城していた可能性も否定できません。

一体光秀は誰の家臣として田中城に籠城していたのでしょうか?

いずれにせよ田中城の籠城戦の資料においても、明智光秀と朝倉家の関係を示す確たる情報は見当たらず、他家との関係も浮上される状況に行きついてしまいました。

まだまだ明智光秀と朝倉家との関係を解明する資料は不足していますね!

明智光秀と朝倉家との真の関係を資料から追及してみた

いかがでしたでしょうか。

今回は明智光秀と朝倉家との関係を資料から追及してみました。

各資料を検証しましたが、すればする程色んな可能性が噴出し、まだまだ謎多き人物であるとの思いを抱きました。

「事実は小説よりも奇なり」といいます。

真実は意外なところにあるかもしれませんね!

最後までお読みいただきありがとうございました。

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