明智光秀が幕臣で、信長とも親密な関係にあったことはよく知られていることですよね!
しかし幕臣としてどのようなことをやっていて、信長と具体的にどういうスタイルで付き合っていたのかまでは詳しく知っている方は少ないと思います。
また、明智光秀は幕臣であり、同時に信長の家臣であったとされています。
この記事では資料を元に分析結果をわかりやすく解説していきたいと思います。
それではお楽しみください(^^)
明智光秀の幕臣としての役割とは?信長との両属を資料から分析
幕臣としての役割
越前にいた上洛前の役割
明智光秀が幕臣となった明確な時期は正直言って判明していません。
上洛以前のことは何ら明らかになっていないのです!!!
手掛かりになりそうな資料として、「光源院殿御代当参衆足軽以下覚書」があります。
「光源院殿御代当参衆足軽以下覚書」の後半部分に、足軽衆として明智の記載があります。
この明智は光秀の可能性が高いとされています。
同資料は永禄10年(1567)2月から11年5月までの資料で、足利義昭が上洛を目指して越前に滞在していた時のものとされている
まとめると明智光秀は越前にいた時、既に幕臣で、足軽衆という身分で足利義昭に仕えていた可能性が強いといえるでしょう。
もちろん最初は朝倉義景の家臣で、後に足利義昭の家臣となったという定説も捨て去る可能性はできませんが!
ここでいう足軽とは将軍を警護する部隊の一員のことで、一般的にいう地位の低い足軽とは異なる。しかし奉公衆らと比べると地位の低い役職だった
上洛直後の役割
永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じて上洛しました。
この上洛以後明智光秀の発給文書が頻繁に見られるようになり、光秀の行動が分かりやすくなっていきます。
この時期明智光秀は幕臣(奉行人)として、信長の家臣(奉行衆)と共に京都周辺の政務と京都の治安維持を担当していました。
いつのまにか足軽衆から奉行人に出世していたのですね!
さすが才人光秀です。
また、戦にも参加しています。
永禄12年(1569)正月に信長が本拠岐阜に戻ったところを狙って、三好三人衆が足利義昭がいる京都本圀寺に攻め寄せてきました。
青:岐阜城 黄:本圀寺
岐阜城から本圀寺まで滋賀県を横断していますね!
これは移動は大変だったと思います。
この時明智光秀は幕臣として織田家の家臣と共に戦います。
その事は信長公記に記されています。
この時、御所に立て籠っていた軍勢は、細川藤賢、織田左近、野村越中、赤座長兼、赤座助六、津田左馬丞、渡辺勝左衛門、坂井直政、明智光秀、森弥五八、内藤貞弘、山県盛信、宇野弥七らであった
信長公記
ここからが信長との関係が深まっていきます。
永禄13年以降の役割
永禄13年(1570)頃から、いよいよ織田家との距離が更に近づいてきます。
光秀は、織田家中の羽柴秀吉、丹羽長秀、中川重政と共に奉行的な事をやるようになります。
具体的には「京都周辺における権門の領する荘園保護」等です。
目立つものとしては、禁裏御料所の丹波山国荘(京都市右京区京北町)の丹波宇津氏の狼藉を糾明しています。
同時に京都市中の行政も担当しました。
以下に記載した文章を見てください。
元亀二年九月晦日、信長の家臣島田秀光、塙直正、幕府奉行人松田秀雄、そして(明智光秀)光秀という四人の奉行人によって「公武御用達」ため、段(反)別一升の段米を京都市中の寺社、山城国の各荘園へ課し、二条妙顕寺へ運上させている。
言継卿記
妙蓮寺文書
この文書は大量発給されたことが確認されています。
また、同じ四人の奉行人で「禁裏賄料」として洛中に対して貸し付けています。(上京文書)
明智光秀の幕臣と信長の家臣としての両属の立場
深まった信長との関係
明智光秀は足利義昭の足軽衆の一人として上洛ましたが、この時期には足利幕府の奉行衆の一人にまでなっていました。
そして織田家武将と共同で行政を担当し、永禄13年(1570)には信長と義昭の間を調整する仕事にも抜擢されていました。
これは上洛前後(永禄11年)に光秀と信長の関係が深まり、その後も評価されたことが理由とみられています。
明智光秀は義昭と信長両者から、相当優秀な人材だと認められていたのですね!
また光秀は村井貞勝(織田家の行政官)と共に奉行人として、「義昭と信長」の意志を権門や都市民、村落に伝え、逆に都市民等の意見を「義昭と信長」に伝え、判断を仰ぐということもやっています。
これは「義昭と信長」という最高権力者の直属の部下であることを意味します。
明智光秀はもはや幕臣としての身分だけではなく、事実上信長の家臣としても動いていたといっていいでしょう!
事実上信長の家臣か!?
上洛してからの光秀は、織田家の武将との共同で活動します。
具体的な例としては、
・羽柴秀吉、丹羽長秀、村井貞勝といった織田家武将と連名で公文書を出している
・信長の命令で公家(天皇近侍の貴族)らの領地調査を実施している
言継卿記(元亀元年3月6日条他)
・信長の奏者(取次役)を務めている
兼見卿記(元亀元年2月30日)
他にも信長が上洛してくると、光秀は自分の屋敷を宿舎として提供しています。
これは相当信頼関係があった証拠ですね!
更に元亀二年には比叡山焼き討ちの功により、信長から近江国志賀郡を褒美として賜っています。
もう事実上信長の家臣ですね!!
明智光秀と足利義昭との関係が決裂した状況を説明しますね。
足利義昭は元亀4年(1573)2月に反信長の旗を挙げました。
これには訳があり、元亀3年(1572)10月に甲斐の武田信玄が西上作戦を開始したためです。
武田軍はさすがに強く、織田徳川連合軍を三方原で散々に打ち破りました。
赤:三方原の戦いの戦場 青:清州城 緑:岐阜城
武田軍は三方原の戦いから清州城に進み、落城させたら信長の居城岐阜城に攻め寄せると考えられます。
もし岐阜城が陥落したら、信長は滅亡するでしょう。
信長は危機に陥りましたが、元亀4年(1573)4月に武田信玄は病死してしまいました。
東の最大の脅威が無くなったため、信長は京都の義昭を攻撃、あっという間に降伏させたのです。
明智光秀はこの時義昭を見捨てました。
これで完全に幕臣とは無縁になったのです。
以後、本能寺の変まで信長の家臣として忠誠を尽くします。
明智光秀の幕臣としての役割とは?信長との両属を資料から分析してみた
いかがでしたでしょうか。
明智光秀の幕臣は幕臣として足軽衆から奉行人に出世しています。
当時に信長との関係もいつの間にか深まり、織田家の地位の高い武将と共同で仕事をしています。
上洛した直後は明智光秀は幕臣としての立場が強いように見えますが、徐々に信長の家臣としての立場に傾いていくのが実態だったのかと見受けられました。
特に近江国志賀郡を比叡山焼き討ちの褒美として賜っているのが象徴的ではないでしょうか?
いずれにせよ明智光秀は優秀な人物だったというのが分かります。
最期までお読みいただきありがとうございました。