戦国時代

明智光秀と長宗我部元親との本能寺での関連とは?資料から徹底分析

明智光秀が本能寺の変で信長を討ったことを知らない方はいないと思います。

しかし信長を討った理由は未だに判然としていませんね!

一つの説に明智光秀が長宗我部元親と組んで本能寺の変を起こしたという説があります。

その根拠に石谷家文書がありますが、この説は本当なのでしょうか?

この記事では明智光秀と長宗我部元親の関係を中心に、2人が本能寺の変とどう関わっていたかを資料から検証しました。

それではお楽しみください!

明智光秀と長宗我部元親との本能寺での関連とは?

明智光秀と長宗我部元親との関係

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長宗我部元親 肖像画

最初に明智光秀と長宗我部元親との関係をご説明しますね!

下記2項目をご覧ください。

明智光秀の重臣石谷頼辰と長宗我部元親との関係

四国の覇者長宗我部元親は幕臣であった石谷光政の娘と婚姻しています(永禄六年(1563)と推定されています)。

この石谷光政の女婿に石谷頼辰という光秀の重臣がいますが、長宗我部元親の義兄弟に当たるわけですね~

更に石谷頼辰の息女は、長曾我部元親の嫡男信親に嫁いています。

長宗我部家とは思いっきり親族なんです!!!

石谷頼辰は山崎の戦いに参陣し、敗戦の後元親を頼り、土佐国に落ち延びました。

かなり緊密な関係がうかがえますね!

石谷頼辰は天正14年((1586)12月の戸次川合戦で、婿の長宗我部信親と共に討死にしています

ともあれ明智光秀の重臣に長宗我部元親の親族がいたことは、二人の親しい関係を示していると思います。

明智光秀の重臣斎藤利三と長宗我部元親との関係

斎藤利三は上記石谷頼辰の弟です。

つまり長曾我部元親の嫡男信親の叔父にあたります。

更に斎藤利三の子息津戸右衛門とその被官の給地が、天正16年(1588)に土佐国長岡郡江村郷にあったことが確認されています(長宗我部地検帳)。

山崎の戦いは天正10年(1582年)6月に行われた戦なのですが、敗戦後6年も経った資料で確認されています。

長曾我部元親は謀反人明智光秀の重臣斎藤利三の子息を匿っていたという事でしょうか?

匿っていた理由が明らかになった時、明智光秀と長曾我部元親が本能寺の変にどう関わっていたのかが明らかになるでしょう!

いずれにせよ長宗我部元親が斎藤利三と相当親密な関係にあったという事は紛れもない事実ですね。

源義経  

明智光秀殿は2人の重臣が長宗我部元親殿と親しかったことにより取次に抜擢されたのじゃ。これで四国方面の外交の責任者となり、織田政権でまた一つ注目されることとなった

斎藤利三の息子津戸右衛門は春日局の実兄です。

春日局が誕生したのも長宗我部家のおかげと

いえるでしょう!

織田政権での明智光秀の長宗我部氏への役割

明智光秀と長曾我部元親との関係が資料上に見受けられるようになるのは、天正6年(1578)10月16日付の織田信長が長曾我部元親の嫡子信親に送った書状からです「土佐国蠧簡集」。

同書状は織田信長が長曾我部元親に阿波侵攻と、長男の弥三郎に偏諱(信)を与え、信親と名乗ることを認めるといった内容です。

注目すべき記載に、「惟任日向守(明智光秀の事)に対する書状、披見せしめ候」とあります。

これは明智光秀が長宗我部元親との間に立って交渉を行う「取次」となっていたことが判明します。

次に「土佐国蠧簡集」に織田信長が長曾我部元親に送った、天正8年(1580)12月15日付の書状があります。

この書状で明智光秀と長曾我部元親との関係は、以下の記述により明確になっていきます。

「隣国干戈(戦争)の事、かれこれ惟任日向守申すべく候也、謹言」(隣国との戦争は、全て明智光秀を通じて報告するように)

明智光秀が長宗我部氏との交渉全般を、信長から任されていたことが分かりますね!

信長の長宗我部氏に対する方針の変化

天正8年までは織田氏と長宗我部氏との関係は円満でした。

しかし信長は「四国は元親が切り取り自由」としていましたが、天正9年末、急に方針を変えました。

信長は、「伊予、讃岐を返上し、土佐と阿波半国を与える」という国分案(領土分割案)を長曾我部元親に提示してきたのです。

これは当時事実上四国を制覇していた長曾我部元親には非常に厳しいことで、到底承服できるものではありません。

明智光秀は前述した石谷頼辰を長曾我部元親を説得に向かわせましたが、元親は納得しなかったのです。

源義経  

ここで信長殿が四国征伐に乗り出せば、長宗我部氏は滅亡してしまう。長宗我部氏と親しい光秀殿は、何とかして滅亡から救おうとしたのじゃろう!

天正10年5月、遂に織田信長は三男信孝に四国征伐の朱印状を掲げました。

織田氏、長宗我部氏の緊張関係は増々高まっていきます。

信長と長宗我部氏との間で苦しい立場に陥る

「石谷家文書」に、天正10年5月21日付の長宗我部元親の斎藤利三への書状があります。

同書状の主な意味は、

・織田信長が長宗我部元親に提示した国分案(土佐と阿波半国以外は信長に返上する案)に従う

・返上しても(織田家が)攻めてくるのなら、不本意ながらも戦う

と書いてあります。

このことから斎藤利三と長曾我部元親は深い繋がりがあり、長宗我部氏存続の為に東奔西走していたことがうかがえますね!

しかし信長は長宗我部元親が恭順しているのに四国征伐を実行しようとして、出兵計画を着々と進めていきます。

これで織田氏と長宗我部氏との間に立って、良好な関係を維持するために様々な努力をしてきた明智光秀の努力は水の泡となりました。

光秀の面目は丸つぶれとなったのです!

本能寺で謀反したのは信長の長宗我部征伐が原因?

本能寺の変後、公卿の山科言経は自身の日記(天正10年6月17日付)に斎藤利三の事をこう記しています。

「今度謀反随一也」(言経卿日記)

明智光秀の本能寺での謀反に利三が主体的に関与していたと見られていたようです。

また、元親記にはもっと具体的に書かれています。

同時代人には斎藤利三が明智光秀を謀反に駆り立てたと見られていたようです。

現在明らかになっている情報はここまでです。

上記言経卿日記と元親記を見ると、斎藤利三が明智光秀を説得し、長宗我部氏を救援するため本能寺の変を起こしたと考えられます。

しかし明智光秀、長曾我部元親、斎藤利三、石谷頼辰等の当事者の書状はありません。

言ってみれば本能寺の変での明智光秀と長曾我部元親との関連は、状況証拠は揃っていますが物的証拠がないということです。

事実が判明するのは、まだまだ時間がかかりそうですね!

明智光秀と長宗我部元親との本能寺での関連をまとめてみた

いかがでしたでしょうか。

今回は明智光秀と長曾我部元親が本能寺の変において、繋がりがあったのかどうかについて執筆しました。

明智光秀の重臣の石谷頼辰と斎藤利三は長宗我部氏と血縁関係にあります。

そのことから長宗我部氏を守ろうという動きがあったのでしょう。

実際山科言経は斎藤利三が明智光秀を説得して謀反を起こさせたと確信しています。。

また、山崎の戦いでは石谷頼辰は土佐に逃げ、斎藤利三の息子津戸右衛門は土佐国に領地を持っています。

相当深い関係があったことは言うまでもありません。

しかしもうちょっと具体的な証拠が発見されないと、明智光秀と長宗我部元親の本能寺での関係は、何も断言できないと思います。

次なる発見を待ちましょう!

最期までお読みいただきありがとうございました。

主な参考文献

・土佐国蠧簡集

・石谷家文書

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