戦国時代

明智光秀の丹波攻略の実態とは?事実を資料から迫る!

明智光秀が丹波を攻略したことは広く知られていますね!

しかしもっと深堀した丹波攻略戦の実態を把握している方は少ないように思えます。

今回この明智光秀の丹波攻略戦を調べてみると、光秀の優しい性格や大変困難な戦の様子等、驚くことがたくさんありました。

また、明智光秀の魅力がふんだんに詰まっていて、管理人の明智光秀像が新しいものに変わったかのような気もします。

当時の資料をふんだんに用いて分析し、明智光秀の丹波攻略戦をわかりやすく執筆いたしましたので、お読みいただければ幸いです。

では、お楽しみください(^^♪

なお、解説は兵法の大家、源義経さんにお願いいたしました。

源義経 

皆の衆、よろしく頼むぞ!

明智光秀の丹波攻略の実態を資料から分析

丹波攻略の重要性

青:京都御所 赤:八上城 紫:福知山城 緑:姫路城

織田信長はこの頃毛利氏と戦うことを決めていました。

信長は戦略眼が非常に優れおり、毛利氏との最初の戦場は播磨になると考えていました。

播磨での戦を有利に進めるには、丹波攻略という課題をクリアしなくてはなりません!

その理由を源義経さんにご説明してもらいましょう。

源義経 

地図を見れば二つ問題があることがすぐ分る。下にまとめたから見るように!

  • 丹波は京都に近い
  • 織田軍が播磨に進軍したら、丹波の軍勢に背後を突かれる可能性がある

京都は言うまでもなく帝が住んでおり、織田政権にとって最も重要な都市といえるでしょう。

この地が戦場になれば、街は火の海になりかねません。

また、八上城と播磨国姫路城の位置を見てください。

八上城は丹波の有力国衆の波多野氏の居城ですが、織田家に背いた場合、容易に播磨に展開している織田軍の背後を付ける位置にあります。

この二つの理由で丹波を完全に攻略せねばならないのです。

源義経  

これだけではないぞ~実際に毛利との戦いを検討すれば、更に二つの問題がある

  • 丹波は織田家に服属せず、いつ叛くか分からない在地土豪が多かった
  • 山陰道から毛利と連絡を取っていた。実際赤井直正は吉川元春と書面でのやり取りをしている

要は丹波には毛利と結んで、織田家に歯向かおうとしていた土豪がいたのです!!

こうして天正3年(1575)6月、織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じました。

第一次丹波攻略戦

丹波国衆との関係強化

明智光秀は丹波攻略の困難を察知しており、敵対する国衆との正面激突を避け、可能な限り国衆を味方に付けることから始めます。

そのため味方に付いた丹波国衆へは丁寧に対応し、文書には書士文言に「恐々謹言」、宛名敬称では、「殿」、「御宿所」と記しています。

更に小畠文書という資料に、明智光秀が丹波国衆の小畠永明に送った書状が残っており、細やかな気遣いをしていた様子が見て取れます。

天正3年8月21日付と同年9月16日付の書状(小畠文書)には、小畠永明の傷を心配し、何度も何度も養生するよう記されています。

同年9月21日から始まる作戦に関する記載には、以下のような明智光秀が小畠永明の傷を心配する優しい心情が見受けられます。

明智光秀は丹波国衆の情に訴えて味方を増やし関係を強化していったのです。

源義経  

これは明智光秀殿が味方についた国衆と敵の国衆とを戦わせ、丹波攻略を円滑に進めようという計算もある。優しいがしたたかさもある御仁じゃのう~

光秀らしい慎重な作戦ですね!

黒井城攻め

明智光秀の丹波攻略で初めに立ちはだかったのが、丹波の赤鬼と評される猛将赤井(荻野)直正でしょう!

赤井直正は丹波国の奥郡(天田、何時、氷上の三郡)を所領とし、丹波で大きな勢力を誇っていました。

明智光秀 

赤井直正は強敵だ!丹波の国衆を味方に付け、戦力を強くして黒井城を攻めるのじゃ~

明智光秀の国衆の懐柔策は順調に進み、「丹波の国衆過半」が味方についていたといわれています。

一方赤井直正はこの時但馬の山名氏と竹田の大田垣氏と戦っていましたが、光秀の進軍を聞き大急ぎで居城の黒井城に戻り、光秀と対峙しました。

さて、この黒井城ですが、並みの城ではありません。

この写真を見てください。

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黒井城跡 かなり険峻な地に築城された城だったんですね

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黒井城 山の上に立つ要害堅固な名城ですね

黒井城は標高356mの城山を中心に周囲の尾根線や支峰にも城郭が配置された大規模な城郭です。

また上記写真を見れば分かる通り、険阻な山の上に築かれている難攻不落な城郭でといえるでしょう。

明智光秀 

黒井城を力攻めしても犠牲を払うだけだ!ここは黒井城の周囲に陣城を築き、包囲して兵糧攻めにて落とそう

包囲作戦の状況が吉川家文書にこう記されています。

明智光秀の丹波乱入により、荻野(赤井)直正は但馬から退き、黒井城に籠城を開始した。光秀軍は黒井城の周囲に12,3ヶ所の相陣(陣城)を置き、城の近くのものは、城の「尾崎」に固めた

吉川家文書

吉川家文書を読むと、黒井城の周囲が明智方の陣城で囲まれて、完全に包囲されているのが分かりますね。

明智光秀による丹波攻略は円滑に進むかのようにみえました。

ところが天正4年(1576)正月、八上城の波多野氏が突如裏切ったのです。

青:京都御所  黄:八上城  赤:黒井城

この図を見れば分かる通り、明智軍は八上城の波多野氏に攻撃されれば黒井城の赤井直正と挟み撃ちになるばかりか退路を断たれてしまいます。

この時の状況は、以下のように記されています。

・「ことごとく敗北」(兼見卿記)

・「丹波中部の周知まで逃げ帰った」(赤井伝記)

要は散々な敗北を喫したわけですね!

こうして明智光秀の第一次丹波攻略戦は大失敗しました。

第二次丹波攻略戦

明智光秀の第二次丹波攻略戦は天正5年(1577)から始まりました。

しかし前年に明智勢は赤井直政と波多野勢に大敗しているため、丹波は反織田に傾いていたのです!

この状態を「享禄以来年代記」では、「丹波一揆静まらず」と評しています。

しかし明智光秀の第二次丹波攻略戦の序盤は、意外にも大した抵抗にあわず順調に進んでいます。

この時「吉川家文書」には、赤井氏と波多野氏は結託して光秀と戦うことが話し合われたと記されています。

しかし同年3月に赤井直正が病死しました。

源義経 

赤井直政殿は戦略、戦術共に優れた名将だった。直政殿が亡くなれば、反織田の国衆は統制の取れた作戦はとれない!敵は波多野氏に絞られたな

これで明智光秀の丹波攻略の大きな障壁が一つ消えましたね!

同年9月に、前回煮え湯を飲まされた波多野氏の八上城を包囲しました。

この包囲は何と天正7年(1579)2月までの落城まで続くことになります!

しかし天正6年(1578)10月に摂津の荒木村重が信長に謀反しました!

丹波と摂津は近いということもあるのでしょうが、光秀も信長の荒木攻めに参陣させられています。

優秀な家臣ゆえに主君にこき使われるということでしょうか((+_+))

本格的な八上城攻めは延期されました。

八上城の攻城戦

天正6年(1578)12月、光秀はようやっと丹波に下向し、八上城に本格的な攻撃を加えることができるようになりました。

八上城は標高460mの高城山の山頂に築かれた、八木城と黒井城と並ぶ丹波三大山城といわれ、山のいたる所に曲輪などの防御施設が構えられていました。

源義経  

八上城は難攻不落!明智光秀殿の丹波攻略の最大の障壁といっていいだろう!この八上城さえ落とせば、事実上丹波を攻略したといって過言ではない。

ここで八上城がどういう城が見てみましょう!

八上城も険しい山に築城されています。

道が狭く険しい。これでは大軍での進行は不可能ですね!

画像
山の中にある山といった感じでしょうか?これでは正面攻撃は事実上不可能ですね!

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八上城を正面攻撃したら被害が大きくなるだけだ!ここは付け城を作って包囲し、兵糧攻めをしよう

波多野氏方は光秀の兵糧攻めを余程嫌がったようで、積極的に城外に討って出ました。

波多野方の攻撃は余程激しかったらしく、天正7年(1579)正月に行われた明智方の付け城への夜襲では、光秀にもっとも協力した丹波国衆小畠永明が戦死しました(泉正寺文書)。

丹波攻略

天正6年(1578)9月以降、光秀が行った兵糧攻めの効果が出てきます。

この時既に八上城では、400~500名の餓死者がでていました。

そのため八上城から降参の兵が続々と来ますが、光秀は「一人も漏らさず討取れ」と厳命しています。

源義経 

降参兵を討取るのは、城内の兵を減らさないためだ。兵が減らなければ、兵糧攻めの効果は増すことだろう

なお、この時に逃げてきた城兵は、顏が青く腫れた様子になっていたといわれています。

兵糧攻めは恐ろしいですね!

天正7年(1579)2月、八上城城主の波多野秀治と2人の兄弟は調略によって捕らえられ、八上城は陥落しました。

源義経  

これで明智光秀殿の丹波攻略はほぼ達成した。明智殿も久々に安心して眠れるようになったであろう!

光秀は八上城を落とした後、残敵を攻撃し、天正7年8月に黒井城を攻め落としたことにより、丹波を制圧しました。

この黒井城を天正4年に攻めた時、当時の城主赤井直正に攻撃されて敗走したことがありました。

その時のことが余程悔しかったらしく、「鬱憤を散じ候」(雨森善四郎氏所蔵文書)と述べています。

天正3年6月から始まった明智光秀の丹波攻略戦ですが、約4年の歳月をかけてようやっと終結しました。

織田信長 

光秀、良くやった!褒美として丹波一国(約29万石)加増してやる

信長も大層喜び、光秀を高く評価しました。

先にも触れましたが、織田軍にとって丹波は山陰道、山陽道への軍隊の移動に必要不可欠な地です。

織田信長はこの明智光秀の丹波攻略により、毛利との戦いが可能となりました。

天下統一に近づいたと小躍りしていたかもしれませんね!

明智光秀の丹波攻略を資料から分析してみた

いかがでしたでしょうか。

明智光秀の丹波攻略について執筆いたしました。

明智光秀は最初に丹波の国衆を味方に付けることから始め、無理の無いように作戦を進めていますね。

しかし波多野氏の裏切といった予期できないことが勃発します。

一度は大敗しますが、光秀は国衆の心を掴んでいたため、短い期間で反撃して、戦いを有利に進めます。

この明智光秀の丹波攻略が成功した要因は、軍事面の巧みな作戦よりも、国衆の心を掴んだ光秀の優しい性格、丁重な態度の方が大きかったように思えます。

色んな憶測がなされる光秀ですが、丹波国衆へ送った優しさあふれる書状は本物です。

この優しい性格を中心に分析するのが、最も大切なことだと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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