戦国時代

浅井長政はどんな人?イケメン等の逸話をわかりやすく解説してみた

浅井長政という戦国大名をご存じでしょうか?

戦国一の美女と名高いお市の方との結婚や、織田信長との戦い等で知名度は高いと思います。

またイケメンだったと有名ですね!

しかし具体的に何をした人なのか?

どんな性格をしていたのか?

本当にイケメンなのか?

といったことは案外知られていないと思います。

そこで浅井長政について、どんな人だったのかをわかりやすく解説していきたいと思います。

浅井長政はどんな人か?わかりやすく解説

浅井長政の軌跡

年表

◆1545年

近江の国の六角家の居城・観音寺城で浅井久政の嫡男として誕生

◆1559年 15歳

野良田の戦いで対立していた六角家を打ち破る

六角家との臣従関係を重んじる父の浅井久政を隠居させ当主となる

◆1563年 23歳

織田信長と同盟、妹のお市の方を正室として迎える

◆1570年 26歳

織田信長を裏切って朝倉義景の味方をし、金ヶ崎で織田軍を攻める

姉川の戦いで織田信長に敗北

◆織田信長に居城の小谷城を攻められ、父・久政と共に自害

その際正室お市の方と3人の娘を羽柴秀吉に引き渡した。

家督相続と六角家との戦い

浅井長政は勇気に満ちた武将で、僅か15歳の時に野良田の戦いで果敢に指揮を執り、六角家の大軍と戦い蹴散らしました。

ちなみにこの時浅井家は父・久政が六角家との戦に負けたことから、六角家に臣従していました。

ですので浅井長政は人質として六角家の居城観音寺城で生まれ育ったという屈辱があります。

この野良田の戦いで六角家から独立し、浅井長政は家臣の衆望も集めました。

すっかり長政の才に惚れ込んだ浅井家家臣たちは、六角氏に臣従して御家を守るという政策を取っていた父久政に竹生島で隠居させ、長政に家督を継がせたのです。

ここで浅井長政がどんな人かと聞かれたら、勇気に満ちた人を集める魅力のある人物と言えますね!

織田信長との同盟

1563年に織田信長は浅井長政に同盟しようと提案してきました!

何故信長が同盟を結びたがっていたかというと、二つの理由があります。

・美濃の斎藤氏との戦いが膠着状態にあり、同盟により有利にさせようとした

・上洛経路にある北近江を領する浅井家と同盟することにより。素早く上洛することが可能となる

浅井長政は同盟するに当たって一つ条件を出しました。

それは「朝倉家を攻撃しない」ことです。

朝倉家は浅井家にとって長政の祖父・亮政の代からの盟友でした。

織田信長は長政の提示した条件に了承しめでたく結婚することになり、戦国一の美人として有名なお市の方が織田家から嫁入りしてきました。

政略結婚であったが、二人は仲睦まじく暮らしました。

織田信長との同盟の破棄と浅井長政の最期

仕事と家庭の両面で充実していた長政ですが、1570年に織田信長は長政との約束を破り朝倉家を突然攻撃しました。

浅井長政

信長殿はお市の兄。朝倉家は祖父からの盟友。どうしたものか・・・・

浅井長政は朝倉家との関係を織田信長との同盟より重視し、悩んだ末に織田・徳川連合軍を背後から攻撃したのです(金ヶ崎の戦い)。

金ヶ崎の戦いではかなりのダメージを織田軍に与えましたが、織田信長を取り逃がしてしまいました。

織田信長

おのれ長政!報復じゃ!浅井を倒せ~

織田信長は徳川家康と共に近江の国に侵攻してきました。

浅井長政は朝倉軍と共に、近江国・姉川で合戦したが、織田・徳川連合軍に大敗してしまいました!

この敗北により浅井家は弱体化してしまいましたが、まだまだ反信長の味方の勢力は他にもいました。

仏教勢力の本願寺や延暦寺、将軍足利義昭、武田信玄、朝倉義景と共に信長包囲網を結成します。

しかし1572年に中核的存在の武田信玄が病没してしまいました。

最強の敵・武田信玄が亡き者となって勢いづいた織田信長殿は、同年8月に朝倉氏を攻撃して滅亡させました。

そして返す刀で浅井長政の居城小谷城を攻撃、8月27日に父の久政が自害し、翌日28日には長政も自害、小谷城は落城し浅井家は滅亡したのです。

浅井長政は29歳という若さでした。

浅井長政はどんな人?エピソードを簡単に解説

浅井長政がどんな人だったのかは、このエピソードによく表れていると思います。

楽しんで読めるものを書きましたので、お楽しみ下さい。

本当にイケメン?

画像

「浅井長政殿の肖像画」

長女茶々が長政殿の追悼として描かせたものとされます。

浅井長政がイケメンがどうか分析してみましょう!

・色白で二重顎のぽっちゃりとした体型

・身長は182cmとされる(当時の平均身長は157cm)

現代のイケメンはほとんどの人が痩せており、浅井長政には当てはまりません。

しかし戦国時代は背が高くてがっちりして、恰幅の良い人がイケメンと呼ばれたんだそうです。

ま、イケメンの条件は時代によって変わるという事で!!

義理堅く優しい性格

義理堅い

浅井長政がどんな人だったかを語るうえで中心で来な事となるのは、義理堅く真面目な性格であったことといえるでしょう。

長政は小谷城落城直前に家臣の片桐直貞へ書状を与えました。

「浅井長政 最後の書状呼ばれ現存しています。


その書状の内容は、

小谷城は本丸を残すのみになった。多くの家臣が城を抜け出すなか籠城して戦い、私への忠義を尽くしてくれた。そなたに本当に感謝をしている

この書状はひたすら片桐直貞の忠勤に関する感謝の気持ちを書き記しています。

また、新しい主君に推薦するための内容(自分にこんなにも忠義を尽くしてくれた忠臣だ等)ともなっていました。

落城間際に家臣にこのような書状を書くなんて、本当に義理堅く真面目な人ですね!

優しい性格

画像

お市の方の肖像画

浅井長政は織田信長の攻撃で小谷城が陥落する際、妻のお市の方と娘3人を羽柴秀吉へ引き渡しました。

戦国時代の結婚は対抗勢力との同盟関係を結ぶきっかけになるが、嫁入りした女性は人質でもあり、両家の関係が悪化すると処刑される時もありました。

しかし浅井長政は違った。

お市の方に危害を加えるどころか、3人の娘と共に安全な敵の羽柴秀吉のところへ送ったのです!

愛する妻と娘たちには幸せに暮らしてほしいという長政の優しい気持ちが伝わってきます。

余程妻子を愛していたのですね!

浅井長政がどんな人かを簡単にまとめてみた

いかがでしたでしょうか。

今回は浅井長政殿がどんな人かを解説いたしました。

ポイントは以下の通りです!

  1. 15歳で初陣。家臣の信望を集める
  2. 織田信長と同盟し、お市の方と婚姻する
  3. 織田信長が朝倉攻めをしたため、同盟を破棄する
  4. 織田信長と激しく戦うが敗北。居城小谷城で自害
  5. 性格は義理堅く卑怯なことを嫌う
  6. とても優しく、妻と子供を愛した

浅井長政はイケメンと言われています。

ただ容姿より人間性が重要で、義理堅く凄くとても優しい。

こういう性格は戦国時代には珍しく、すがすがしさを感じます。

もっと浅井長政殿を知りたいと思いました。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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