戦国時代

朝倉義景はどんな人?性格が滲み出ているエピソードをご紹介

朝倉義景という戦国大名を知っている方は大勢いると思います。

何故かと言えば、織田信長と長年戦ってきた相手だからです。

そして武将としての能力が余りないということも知られていると思います。

しかしご存じなのは信長と争ったという事と能力の面だけではないでしょうか?

今回朝倉義景がどんな人で、どんな性格をしているのかを中心にまとめました。

お楽しみいただければ光栄です。

朝倉義景はどんな人?人間性を徹底検証!

朝倉義景の経歴

まずは朝倉義景の主な経歴の年表を記します。

・天文2年(1533年)9月24日 越前国の朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる

・天文17年(1548年)3月、父の孝景が死去したため、16歳で家督を相続して第11代当主となる

・永禄8年(1565年)9月 足利義昭(当時義秋)が越前敦賀に動座

・永禄11年(1568年)7月、朝倉義景は足利義昭の再三の上洛要請に腰を上げず、義昭は織田信長を頼って美濃国へ行ってしまう。

・永禄13年(1570年)4月20日 上洛した織田信長の再三にわたる上洛要請を拒否しまくったことから、信長に領国を攻められる(金ヶ崎の戦い)

・元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)

Жその後織田信長と激しく戦うこととなる

・天正元年(1573年)8月20日 賢松寺で自害する。

享年41歳であった。

弱腰の性格

朝倉義景がどんな人かと言えば、政治、軍事に関して、余りやる気がなかったように見受けられます。

まず当主になったのは16歳の時ですが、自分では何もせず、名将と名高い従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に軍事、内政を一切任せていました。

弘治元年(1555年)に朝倉宗滴が他界してしまったので、朝倉義景は仕方なく政務を執るようになります。

永禄8年(1565年)に義秋(後の将軍足利義昭)が越前に来訪。

これは義秋を奉じて上洛し、天下に号令するチャンスなのですが、なんと朝倉義景は何もしなかったのです。

今川義元

京都は三好氏が占領していたのじゃ!三好氏は強い。朝倉だけではとても勝てないのじゃ!それに背後には勢力を急拡大させている織田信長もいるしのう

結果として朝倉館で元服した足利義昭は、朝倉義景を見限り織田信長の元へ行ってしまいます!

画像
足利義昭

織田信長との格の違い

織田信長は上洛して三好氏を撃退して足利義昭を将軍にさせました。

そして全国の諸大名に上洛命令を出し、当然朝倉家にも上洛命令を出したのです!

ところが朝倉義景は応じない。

そこで織田信長の討伐を受けることとなりました。

朝倉義景

ここで上洛すれば、信長の配下になる恐れがある。誰が行くか!

織田信長

ふふふ、これで朝倉攻めの大義名分ができた

こうして信長の越前攻めが開始されました。

最初は織田軍の怒涛の攻撃で押されていましたが、金ヶ崎の戦いで織田信長の妹婿の浅井長政が突如信長を裏切り義景を助け、織田軍の後ろから攻め立てたため大勝利を収めたのです。

しかし姉川の戦いで大敗しました。

その後、盟友浅井長政、本願寺等の仏教勢力、武田信玄と信長包囲網を作って対抗しましたが、最大の戦力の武田信玄が他界してしまったのです!

そうなると織田軍は浅井、朝倉に主力を向けることができるため、大軍で激しい攻撃を開始したのです!

1573年8月にいよいよ織田信長の朝倉攻めが開始されました。

越前の諸将は義景の出陣命令を拒否!

既に信長に調略されていきました。

弱腰で優柔不断な義景を見限っていたのです。

朝倉軍はあちこちで敗北、同年8月20日に朝倉義景はどうにもならない状況に陥り自害した。

享年41歳でした!

朝倉義景はどんな人?性格が滲み出ているエピソードをご紹介

芸事に熱中していた

越前国は周囲に大きな戦が無かったため治安が良く平和でした。

そのため数多くの公卿や文人墨客、芸能者が戦乱から逃げてきて身を寄せていました。

その文化人達が越前国一乗谷に京文化を伝えたため、朝倉家の居城がある一乗谷の文化は「もう一つの京」と言われる程レベルが高かったのです。

朝倉義景

儂自身も歌道や茶道を初めとする色んな芸事に励んでいたぞ~中でも小笠原流弓術は得意中の得意じゃ!犬追物をよくやっていたぞ~

朝倉義景は芸事はかなりレベルが高かったようであるが、戦国大名なのに文化人との遊興に熱中してしまったのじゃ( ;∀;)

この人物に武略という文字はないらしい!!!

戦国大名なのに戦に参加しない

朝倉義景がいったいどんな人なのかと考えれば、おっとりとしたお坊ちゃまという表現が一番しっくりするかもしれません。

姉川の戦いという織田信長との決戦になんと出陣せず、従兄弟の朝倉景健を総大将にして、戦を丸投げしたんです!!

朝倉義景はその後の戦も出陣ませんでしたが、唯一志賀の陣では珍しく出陣しました!

だがしかし・・・

信長は当時四方に敵を構えて窮地にあった。

織田軍を殲滅できるチャンスだったが、信長有利の和解工作にさっさと同意して越前に帰ってしまったのじゃ!

朝倉義景

儂は自分の領国が無事ならそれでいいんじゃ

また武田信玄が西上作戦を開始した時も、信長を背後から突けば織田軍を殲滅できる状況にありながら勝手に越前に帰国してしまい、信玄を激怒させ、批判する書状が送られました。

このときの言い訳が以下のものです。

・部下が疲れている

・雪が降ってきた

この口実こそ朝倉義景がどんな人かを最も良く表していると思います。

愛情深く優しいが、女性にかなり弱い

1568年に朝倉義景殿の嫡男・阿君丸が亡くなりました。

その事で悲嘆の余り政務を行わなくなったのです。

この嫡男の死が義秋からの上洛要請に応じなかった理由だとされています。

義景はとても悲しんでいたことから、心配した家臣が小少将を側室にとることを勧めた。

1570年に小少将は男児を出産(愛王丸)、義景殿は小少将と愛王丸を溺愛したのじゃ!

このことで義景は更に政務を行わなくなったのです。

なお、小少将は類まれなる美貌の持ち主で、義景は溺愛し、昼間から酒宴をしていたとのことです。

そして政治にも小少将とその取り巻きが口を出し、小少将を溺愛していた義景はいいなりだったとされます。

しかし国家の政(まつりごと)に自分の妻を参加させるとは・・・

朝倉義景はどんな人?性格が滲み出ているエピソードをまとめてみた

いかがでしたでしょうか!

今回は朝倉義景殿がどんな人でどんなエピソードがあるかをご説明しました。

今日のまとめです!

  • 凄く教養があった
  • 戦の大半は人任せであった
  • 家族への愛情が深かった
  • 野望が全くなく、戦はやる気がなかった

この朝倉義景殿の戦国大名としてふさわしくない数々の行動から、最後は大勢の部下に裏切られて、名門朝倉家の当主としては寂しい死を迎えます。

平和が似合う人物だったのでしょう。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。。