戦国時代

秀吉の高松城の水攻め!水攻めはこう行われた!成功要因は何か?

秀吉が高松城を水攻めで落としたのは有名な話です。

詳細は後項でご説明しますが、高松城は川や沼で囲まれた天然の要害でした。

そのため力攻めをすれば大損害をだします。

そこで高松城の攻撃方法を水攻めにしたのです。

今回は秀吉が行った高松城の水攻めを、最初から最後までわかりやすく説明いたしました。

ではお楽しみください。

秀吉の高松城の城攻め!有名な水攻めはこう行われた!

         高松城攻防戦跡

高松城の城攻め

高松城の戦略的価値

秀吉と毛利の戦いは、天正5年(1577)に始まる播磨攻めから増々激しくなっていきました。

天正9年(1581)10月に鳥取城が落城したことにより、流れは一気に秀吉に傾きます。

そして秀吉は山陰道の鳥取城に続き、山陽道でも優位に立つべく高松城に狙いを定めました。

緑:郡山城  赤:高松城  青:岡山城

岡山城は宇喜多氏の居城です。

当主宇喜多直家は秀吉を居城岡山城に迎えました。

一方毛利の居城郡山城は山陽道沿いにあります。

岡山城と郡山城の間にある高松城は、秀吉と毛利の戦略上の重要拠点であることが地図をみると分かりますね!

 

高松城とはどんな城か

天正10年(1582)3月15日、秀吉は高松城攻略のため、播磨、但馬、因幡の2万を率いて岡山城に入りました。

宇喜多氏は63万石、12000の兵がいたと言われていますので、合計すると3万2000の大軍になりますね!

ちなみに高松城の城兵は5000とされています。

さて、この高松城ですが相当堅い城だったようです。

惟任謀反記という資料には次のように書いてあります。

毛利家より数年相あつらえ、要害堅固の地なり。たとい、日本国中の大軍を寄(よ)するといえども、たやすく力攻めには及ぶべからず

惟任謀反記

うーん、少々褒めすぎな気もしますが、攻めがたく守りやすい城だったのでしょう!

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高松城跡 西側の低湿地が天然の堀となっています

城の前面に川が流れており、水堀として機能したことでしょう

ここで秀吉は高松城攻めが力攻めでは困難と判断し、清水宗治に対して得意の調略を行っています。

蜂須賀正勝と黒田孝高に任せました。

内容としては、「見方をすれば備中一国を与えよう」というものだったとされています。

しかし清水宗治はきっぱりと拒絶しました。

ここにおいて秀吉の高松城攻めが開始されたのです。

水攻めはどのように行われたのか?

高松城は北側は竜王山、東は石井山と立田山、西南は足守川が流れ、三方には沼のある低湿地に建っていました。

更に開けた場所には大堀があるため、外部から城に至るには僅かな細い道しかありませんでした。

簡単に言えば、城に入る通路はほとんどないといえますね!

そこで秀吉は高松城を水攻めにすることを考えます。

理由としては以下のものです。

・高松城が僅か4m足らずしかないこと

・梅雨の時期であった

城の工事は以下のように行われました。

・期間  5月8日から19日

・門前村から蛙ヶ鼻まで約3キロの堤防を築いた

これにより足守川その他付近の川水を塞き止めた

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蛙ヶ鼻

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蛙ヶ鼻築堤跡 当時は高さ8m、上部の幅12m、底部の幅24m、長さは3㎞ありました

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蛙ヶ鼻築堤跡

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蛙ヶ鼻築堤跡

足守川と高松城 水攻めが以下に規模の大きいものだったかご覧ください

青:蛙ヶ鼻築堤跡 黄:高松城 紫:門前村

長い距離に築堤したのが分かりますね。

ここまで長い堤防を作られれば、高松城は外部との連絡は取れないでしょう!

そして秀吉はよくこれ程の工事をわずかな期間で完成させましたね!

秀吉は高松城周辺の農民に土嚢一俵に銭百文と米一升を払って住民に運ばせ、仕事の能率を上げたといいます。

秀吉らしい逸話ですね!

かくして堤防から山麓に亘る約200ヘクタールの地域に水が流れ込み、湖のようになったのです。

この結果、城中は水浸しになり、城兵は二階や天井に上がっていたとされます。

そして6月2日には残すところ僅か数尺になってしまい、城兵は高い梢に板を渡して集まっていたといいます。

これでは戦闘しようとも何もできませんね!

更に秀吉は堤防上に柵を造り、数百メートルごとに哨所を設置し、昼夜厳重に警戒し、城と外部の連絡を絶ち、堤防の防備に当たらせました。

さすが秀吉!!

どこにも隙は見当たりませんね!!

毛利との和睦

秀吉の水攻めにより高松城は窮地に陥りますが、毛利も救援にやってきます。

この時秀吉は高松城の包囲と毛利の救援軍に備えるため、本陣を石井山に構え、西北は大崎山、東南は立田山、鼓山、吉備中山に亘って部隊を配置し、万全を期して備えました。

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石井山 秀吉の本陣跡

毛利軍は四月中旬に小早川隆景が救援に来ましたが、兵が少なすぎてなすすべがありませんでした。

5月前半に吉川元春が来援し、小早川隆景隊と合わすとようやっと兵数が約3万となったので、岩崎山に吉川元春隊、日差山に小早川隆景隊が進出、更に毛利輝元も来援し、高松城から20キロ程の猿掛山に陣を張りました。

この毛利の布陣は毛利元就から続く両川体制ですね。

毛利方も必死に対抗しているのがわかります!

ところが毛利勢は秀吉の防御態勢に手が出せません。

こうしている間にも時間が経っていき、高松城は苦しくなっていきました。

高松城の落城

秀吉の厳しい水攻めに高松城は籠城も困難な状況となりました。

そこで秀吉は毛利方へ大幅な領土割譲を求めた講和交渉を始めています。

この講和交渉は以下の資料「萩藩閥閲録」(6月8日付の村上元義宛毛利輝元書状)にこう記されています。

羽柴和平の儀申すの間、同心せしめ無事に候。先以って互いに引き退き候

萩藩閥閲録

意訳

秀吉から講和交渉を持ちかけられて、当方も合意し無事終わった。

そのため軍を互いに引いたため、トラブルは起きなかった。

また時の直前に小早川隆景は清水宗治に使者を送り、次のように言ったといいます。

我々の力ではとても助けられないから、貴方(清水宗治)は秀吉軍に降伏しなさい

この小早川隆景の言葉を聞いて、清水宗治は切腹の決意を固めさせたといいます。

ところが6月2日の早朝、織田信長は本能寺の変があります。

分かりやすく時系列でまとめます。

・6月2日早朝 織田信長が本能寺で明智光秀に討取られる

・6月2日   清水宗治から自決の申し出があった

・6月3日夜  秀吉は織田信長の死を知る

       夜、急遽秀吉は講和を進め、講和に

       持ち込む

・6月4日正午 清水宗治切腹

       清水宗治切腹直後、毛利方が本能寺の変を

       知る

・6月5日   秀吉軍撤兵開始

こうして秀吉の高松城の攻城戦は終わりました。

清水宗治の最期は見事なものでした。

小舟に乗って秀吉本陣に近寄って舞を踊ります。

踊り終わると次の辞世の句を詠みます。

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

秀吉は清水宗治の死に様を、武士の鏡として賞賛しました。

この秀吉の中国大返しが始まるのです。

なお、6月4にの正午に毛利方は本能寺の変を知ることとなりますが、東へ向かう秀吉軍を追撃しませんでした。

これは色んな説がありますが、管理人は吉川元春と小早川隆景が秀吉が天下人となると判断し、秀吉に恩を売って次期政権で優位に立とうとしたという説が正しいのかなと思います

秀吉の高松城の城攻め(水攻め)をまとめてみた

いかがでしだでしょうか。

今回は秀吉の高松城の城攻めをまとめてみました。

高松城はこの時代には数少ない水攻めにより攻められています。

その際大規模な築堤工事をしなくてはならないのですが、秀吉は持ち前の機転の良さで見事に成し遂げていますね!

高松城がいくら攻め難く守りやすくても、水浸しになればお終いです。

秀吉が毛利方との知恵比べに勝ったのではないかな~

なんて勝手に思ってしまいました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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