武田家が東美濃を領有していたことはよく知られていることでしょう。
しかし東美濃の中心拠点岩村城の戦いの詳細について把握している方は、そんなに多くはないのでしょうか?
岩村城の城主は武田24将の一人秋山信友(虎繁)で織田軍相手に激しく戦います。
今回はこの秋山信友の最期と岩村城の攻防戦を執筆いたしました。
武田家の苦しい内情も浮き彫りになります。
厳しい状況に対処する武田勝頼の姿も併せてご覧ください。
なお、解説は戦の天才源義経さんに依頼しました。
各々、よろしく頼むぞ!
秋山信友の最期と岩村城の激しい攻防戦!
岩村城前哨戦
天正3年(1575)6月、織田信長は嫡子信忠に3万の軍勢を任せ、岩村城を攻撃させました。
ちなみに岩村城は武田領信濃と織田領美濃の間にある東美濃に築城されており、両勢力にとって重要拠点でした。
長篠の戦いが天正3年(1575)5月21日、その僅か一か月後に岩村城に攻め寄せてきたのですから、信長は余程岩村城が欲しかったのでしょう!
こんな早くに攻め込まれたら、武田勝頼がいかに名将でも対処できませんね!
儂の狙いは岩村城だけじゃないぞ~いっきに信濃を攻め取るのじゃ!!
信長は嫡子信忠に信濃の武田方の武将に調略を開始しました。
これは失敗に終わります。
信忠の調略は天正3年(1575)6月頃に伊那郡飯田城主の坂西一族を謀反させましたが、武田勝頼は早期に手を打ち、松尾城主小笠原信領により鎮圧されました。
おのれ~勝頼!ならば実力で岩村城を取ってくれるわ
こうして岩村城攻城戦が始まりました。
岩村城は要害に建つ、「天下三大山城」と言われる難攻不落の名城。いかに織田軍とはいえこの城を落とすのは容易ではない。秋山信友殿の指揮が見ものじゃ!
では、まず岩村城がどんな城だか見てみましょう!
下記の岩村城の画像を見てください。
かなり峻険な地に建っている城ですね!
道が狭く、木々に挟まれていますね。
これでは攻め上るのは困難な事でしょう!
ここまで険阻な地形に建っていれば、そう簡単には落ちないでしょう!
しかし岩村城の城兵は3000!
織田軍の10分の1です。
これだけ兵力差があれば、武田勝頼の援軍が無ければ間違いなく岩村城は陥落しますね。
しかし岩村城は城主秋山信友の下激しく抵抗し、織田軍を寄せ付けませんでした。
岩村城の完全な孤立!
武田勝頼は岩村城主秋山信友から再三援軍の催促を受けています。
秋山(信友)すまん!到底岩村城に援軍に行ける状態じゃないのじゃ!もうちょっと持ちこたえてくれ
援軍に行けない理由を詳しく説明すると、以下のものがあります。
・長篠の戦いでの大敗北により、精強な将兵が戦死
してしまった。
そのため将兵の募集、編成を行っていた
・集まった将兵には質的、量的に問題があり、
織田軍と戦えるような実力がなかった
・6月から三河、遠江で徳川方の激しい攻勢を
受け、苦境に立たされていた
それでも岩村城からの援軍要請は頻繁に来ます。
武田勝頼はその都度岩村城に出陣をしない言い訳を書状に書きました。
例えば、
・北条氏政と共に(この時同盟中であった)岩村城に行
き、織田勢と決戦する。
・そのための協議中だから、協議が終われば北条勢と共に岩
村城に出陣する
無論北条氏政と共同で援軍に行くという話は嘘です。
主君が家臣に嘘をつく!
どんでもないことですが、本当の事を言えば岩村城は降参してしまうでしょう。
そのため武田勝頼は岩村城の援軍要請に対し、このような苦しい返答しかできなかったのです。
このような返答を秋山信友と岩村城の将士はどう思ったのでしょうか?
もしかしたら勝頼の嘘を見抜いていて、死を覚悟したのかもしれませんね!
岩村城の奮戦
岩村城は孤立した状況にありましたが、秋山信友の指揮の下奮戦し、織田勢を寄せ付けませんでした。
織田軍は岩村城の傍にある水晶山(水積山)に本陣を置き、周囲に川尻秀隆、毛利河内守長秀、浅野左近、猿荻甚太郎等が布陣していました。
頑強に抵抗していた岩村城ですが、10月23日と26日に織田勢の総攻撃があり、名のある武士が大勢討取られてしまいました。
参考に討死にした岩村城の武田方の大身の武士を記しておきますね!
・10月23日
牛巻甚三郎、米山惣佐衛門尉、伴野三衛門尉、遠山和泉守
・10月26日
座光寺三郎左衛門尉、伴野三郎左衛門尉、座光寺左馬尉
やはり織田軍の30000という大軍の力でしょう。
岩村城を支える中心的存在が討死にしています!
秋山信友と岩村城の将士がいくら頑張っても、援軍が来なければ落城必至ですね。
このままでは岩村城は落ちる。ならば夜襲しかない!
武田軍は不利な状況を打開しようとして、11月10日に織田軍本陣水晶山へ夜襲を敢行しました。
この夜襲に成功しなければ、秋山信友と岩村城の将兵に未来はありません。
百戦錬磨の秋山信友の指揮の元、綿密な戦術を立てて岩村城から出陣したことでしょう。
信長公記には以下のように書いてあります。
・岩村城に立て籠もり、織田勢が包囲の為に設けた柵を破壊
して夜討ちに出撃した軍勢に、武田勝頼は合流しようとし
たのである
信長公記
この記述を読むと岩村城から夜討ちに討って出た将兵に、武田勝頼が合流して共同で織田勢に攻撃をしかけようとしたと読むことができます。
しかしこの時武田勝頼は岩村城に援軍に行く余裕はなく、遠江小山城の救援に向かっていたのであるから、この記述は誤りです。
ただ、「甲斐、信濃の大将格21人、屈強な武士千百余りを切り捨てた」
とあります。
「甲斐、信濃の大将格」との記述が目を引きますね。
恐らく武田勝頼が甲斐、信濃の家臣に援軍に向かわせた軍勢である可能性が強いと思われます。
この記述から武田方は夜襲を実施したのじゃろう。まずは援軍が織田軍本陣水晶山に攻撃をする。それに呼応して岩村城からも討ってでる。成功すれば織田軍を追い払えるからのう~
しかし夜襲は失敗に終わりました。
救援軍は川尻秀隆等の迎撃に随所で敗れて付近の山に逃亡。
織田軍の徹底した山狩りで、大将分が21名、兵卒は1100に及んだと信長公記には記述されています。
また、岩村城から打って出た将兵は織田軍と激しく戦いますが、織田信忠自らが陣頭に立って防戦し、岩村城に押返されました。
この夜襲の失敗により、戦闘継続が困難なほどの甚大な損失を被ったのです。
岩村城の落城
岩村城が落城の危機に陥っていた時武田勝頼は遠江小山城の救援という目的は成功し、10月には甲斐に戻っていました。
その後岩村城救援のため、甲斐と信濃へ軍勢の招集をしていました。
軍勢が整い甲府を出発、信濃国伊那に在陣しましたが、新編成の軍勢では織田軍に太刀打ちできません。
長篠の戦いで勇猛果敢な将兵の大量の戦死によるダメージは埋められず、寄せ集めに近い新編成の部隊では精強な織田軍に太刀打ちできなかったのです。
そうこうしている内に信濃や東美濃は雪が降り積もり、軍勢は進軍できなくなりました(甲陽軍鑑)。
こうして武田勝頼からの援軍は見込めなくなり、岩村城は完全に孤立してしまったのです。
その時岩村城では夜襲の失敗もあって、城兵の士気は低下の一途を辿りました。
もはや勝ち目はありませんでした。
11月21日、遂に秋山信友は岩村城の籠城戦を諦め織田軍に降伏いたしました。
約5ヵ月間の激しい戦いでした。
秋山信友殿が降伏したのは、岩村城の城兵の命を救うためだろう。このまま抗戦すれば皆殺しにあうじゃろうからな!
城将秋山信友は岩村城が難攻不落の城とはいへ、良く戦ったと思います。
城兵の助命が開城の条件で降伏しますが、信長は認めました。
そして城主秋山信友、座光寺、大島の岩村城将兵の中心的存在の武将も赦免するとも約束しました。
だが信長に赦免の御礼言上のため岐阜城に向かった3人の将は捕縛され、11月26日に長良川の河原で磔にされてしまったのです。
そして岩村城の城兵です。
織田軍の総攻撃を受けました。
城兵は騙されたことに怒り狂い、織田勢に斬りこみ相応のダメージを与えましたが、大半の者が討取られるか自害し、残った者はは焼き殺されました。
信長がここまでしたのは城将秋山信友の妻のおつやの方に対する怒りがありました。
おつやの方は織田信長の叔母であり、元々岩村城の前城主遠山景任の正室でした。
ところが武田信玄の西上作戦の時に武田軍に降伏、城兵の助命を条件に岩村城を囲んでいた秋山信友と結婚して夫婦になったのです。
そして遠山家の養子として入っていた、信長の五男「御坊丸」を甲府に送ってしまったのです。
つまりおつやの方は織田一族なのに武田に裏切って、敵将の秋山信友の正室になり、加えてよりによって自分の息子を敵の本拠地へ送ったのですから、信長じゃなくても怒りますよね!
ちなみにおつやの方は尾張小牧山で、なんと信長自ら手打ちにしました。
信長の気性の激しさがうかがえますね。
恐ろしい~
秋山信友の最期と岩村城の攻防戦をまとめてみた!
いかがでしたでしょうか。
今回は秋山信友の最期と岩村城の攻防戦をまとめてみました。
この戦いは織田信長が武田方の勢力弱体化を見て、信濃侵攻を見越して攻めてきた戦いでした。
同じ時期に徳川勢も遠江に侵攻しています。
武田勝頼は遠江に出陣し、岩村城に援軍を送る余裕はありませんでした。
結果的に秋山信友と岩村城は独力で織田軍3万と戦わざるを得ず、大軍の前に落城してしまいました。
秋山信友は処刑、岩村城兵もほぼ全員が殺されるという最悪の結果を招いてしまいましたが、武田の武士の魂を見せてくれたのではないかと個人的に思ってしまいます。
最後までお読みいただきありがとうございました。