上杉謙信

上杉謙信の七尾城を巡る熾烈な戦い!城攻めはこう行われた!

上杉謙信は七尾城を陥落させた後、織田軍と手取川で戦って圧勝したのは有名ですね。

では七尾城の攻城戦はどうでしょうか?

野戦では無類の強さを発揮する上杉謙信ですが、七尾城のような難攻不落の名城の攻城戦はどのようにして行われたのでしょうか?

今回は上杉謙信の七尾城の攻城戦についてまとめてみました。

では、お楽しみください。

上杉謙信の七尾城を巡る熾烈な戦い!城攻めはこう行われた!

七尾城攻めが行われる直前の能登の状況

まずは上杉謙信の七尾城の攻城戦が始まる前の状態を簡単に説明しますね。

能登を治めていた畠山家の内情は、非常に悪いものでした。

具体的には主君畠山義綱を追放し、幼子の義綱の嫡男義慶を当主にするなど、完全に重臣たちが権力を握っていたのです。

特に権力を握っていたのは、

親上杉派の遊佐続光・盛光父子

親加賀一向一揆派の温井景隆

親織田派の長続連・綱連父子

更に自分達が擁立した畠山義慶が成長すると、当然対立します。

そうしたらなんと天正2年(1574)に義慶を毒殺してしまうのです。

後は弟の義隆が継ぎました。

畠山家は重臣達の傀儡になっていました。

しかし能登にも風雲をが舞い降りてきました。

七尾城攻めが行われる直前の織田と上杉の状況

天正3年(1575年)5月、織田信長は武田勝頼を「長篠の戦い」で破り、強敵の武田氏に致命的なダメージを与えました。

ア織田信長

武田は滅ぼしたも同然!次は石山本願寺じゃ~本願寺を滅ぼせば、天下を取ったも同然じゃ!まずは越前だ。勝家、容赦はするな

同年8月に柴田勝家に越前に侵攻させ、越前を統治していた石山本願寺の勢力を破り、なんと下間頼照等1万2000人にも及ぶ宗徒を処刑させたのです。

信長は柴田勝家を北陸方面の司令官にして、加賀平定を命じました。

刻々と追いつめられる石山本願寺!

本願寺顕如

信長は恐ろしい男だ。我らも敗れれば皆殺しにされてしまう。そうだ上杉謙信殿に頼ろう

長い間敵対関係にあった石山本願寺が上杉謙信に助けを求めてきました。

同年9月には生残った越前一向一揆が、越中富山城の河田長親に救援を求めてきました。

また、北陸方面は織田家の影響が日増しに強くなる一方です。

上杉謙信

本願時か!長い間の敵だったが、救いを求めてきた以上無下にはできぬ。信長はもう加賀まで来ている。我らも強くならねば信長に勝てぬ。よし、同盟して信長と戦おう

天正4年(1576年)2月に上杉謙信は織田信長との同盟を破棄、5月に石山本願寺と同盟し、反織田勢力の筆頭格となりました。

第一次七尾城攻め

上杉軍の能登進行図

上杉謙信

信長の勢力は強大じゃ。我らも強くならねばならぬ

天正4年(1576)9月、上杉謙信は2万の大軍で越中を平定、11月に能登に進みました。

この時、畠山家の当主の畠山義隆は他界してしまったため、幼い義隆の嫡男春王丸が後を継ぎました。

当主が幼かったため親信長派の重臣長続連が権力を握っていました。

超続連

上杉より織田の方がはるかに強い。ここは織田家に付いた方が得じゃ。そして七尾城で上杉謙信をくぎ付けにして、信長殿の応援を待つ

上杉軍の勢いは凄まじく、能登の城砦を次々と落とし、残るは七尾城だけとなりました。

七尾城は石動山系の北端標高300mほどの尾根上(通称「城山」)に築城された天然の要害で、複数の尾根に数多くの砦が築かれた、難攻不落の広大な山城です。

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七尾城

天正五年(1577)3月、上杉謙信は七尾城を包囲していましたが、関東の北条氏政が出兵し、帰国せざるを得なくなり、包囲体制をそのままにして春日山城に戻りました。

長続連

なに、謙信が越後に戻っただと。よし反撃じゃ

畠山勢は七尾城周辺の坊主や百姓を扇動して一揆を起こし、上杉勢の後方攪乱を試みます。

また城外に討ってでて、熊木城、富木城、穴水城を攻撃しました。

同年閏7月、謙信は8千の兵を率いて再び能登に来攻しました。

長続連

謙信め!もう戻ってきたのか。謙信に野戦では勝ち目がない。七尾城に籠城だ!

畠山勢は七尾城に退却し、再び籠城することになりました。

第二次七尾城攻め

畠山勢が城に籠ると上杉勢は進軍し、7月18日に七尾城下の天神河原に陣を敷き包囲しました。

天神河原は七尾城を山裾から展望できるため、本陣を敷くにはふさわしい土地といえました。

七尾城攻城戦の図

名超続連

信長様~上杉謙信に七尾城を攻められています。助けて下さ~い

織田信長

上杉謙信か!儂と徹底的にやりあうつもりじゃな!よし、勝家、七尾城の救援に向かえ

こうして柴田勝家を総大将とする18千の援軍を向かわせました。

上杉謙信

七尾城はなかなか落ちぬ。こうしている間に関東に乱が起きるかもしれん!織田の救援が向かってきているとの情報もある。早く七尾城を落とさねば

謙信は8月9日に織田軍の越前出兵を知りました。

上杉謙信

まずい。織田軍がもう向かってきているのか!そうだ。こんな時こそ一揆衆の力を借りよう

謙信は加賀の一向宗の総領である七里頼周に救援と織田軍の進軍妨害を求めました。

一方畠山勢もかなり厳しい状況に陥っておりました。

籠城した際に領民にも戦わせようとして七尾城に入れたため、15000の大人数となりました。

しかし季節は7月の熱い盛りの時期、城内の水は欠乏し、食物は腐り、15000人の糞尿を処理できず、城内は不衛生極まりない状態となります。

とうとう疫病が発生してしまいました。

長続連

まずい、疫病でこんなに大勢死んでしまうとは

そしてこの疫病で大勢の人が死に、当主の春王丸まで死去してしまったのです。

当主の死により、親信長派と親謙信派と対立はますます激しくなったのです。

親織田派(徹底抗戦    ⇒ 長続連・綱連父子

新上杉派(謙信との和睦) ⇒ 遊佐続光

両派の対立は日増しに激しくなっていきます。

親謙信派の遊佐続光は、上杉謙信から内応の呼びかけをされていました。

仲間の温井景隆や三宅長盛兄弟らを語らって、内応することを決断します。

もともと長続連が親信長派だということで、強引に家中の権力を独占してしまったことに敵愾心を強く持っていました。

またこのまま籠城を続けても、落城すると判断したことも原因となっています。

一方で上杉謙信もなかなか進展しない七尾城攻めに焦りを感じていました。

上杉謙信

なに?遊佐続光がとうとう我らの内応に応じたか!!願ってもない好機じゃ!一気に七尾城を落とすのじゃ~

上杉謙信は七尾城内の親上杉派遊佐続光と、内通の計画を練ります。

天正5年(1577)9月15日、遂に反乱を起こしました。

遊佐続光は長続連を屋敷に招いて暗殺。

大手口を守備していた長綱連も温井景隆率いる軍に討たれ、門を開けて上杉軍を七尾城内に招き入れました。

激しい戦いの末、上杉謙信は七尾城を遂に陥落させたのです。

この戦いで長一族100余人は皆殺しにされました。

長一族で生残った者は長連龍と長鋼連の末子の菊末丸のみでした。

七尾城を落としたのは能登侵攻から10か月目の事でした。

ともあれ、上杉謙信は七尾城を落としたことにより、能登を平定し、手取川の戦いで織田軍に圧勝するのです。

上杉謙信の七尾城を巡る熾烈な戦い!をまとめてみた

いかがでしたでしょうか。

今回上杉謙信の七尾城攻めについて執筆しました。

謙信は意外にも城攻めが得意だったのが見受けられますね。

親上杉派と手を組んで、難攻不落の七尾城を落城させるなど、中々渋い攻城戦をしていますね!

難攻不落の七尾城を大した損害も無く攻略したのですから大したものです。

猛将という印象のある謙信ですが、慎重な一面があるというのも魅力の一つとなっていると思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。