上杉謙信

上杉謙信は10年長く生きていたら天下を取れたか?その可能性を分析

上杉謙信は軍神とまでいわれた最強の武将ですよね!

しかし天正6年(1578年)3月13日に他界してしまいます。

その死は大いに惜しまれていますね。

そこで上杉謙信がもし10年は長く生きていたら、天下を取れたかどうかを分析しました。

なるべく客観性を持たせたつもりです。

ではお楽しみください(^^)

上杉謙信がもし10年長く生きていたら天下を取れた可能性を分析

天正6年(1578年)の各勢力状況

上杉謙信は実際には天正6年4月に他界しますが、ここではもし生きていたらということで話を続けたいと思います。

さてさて、当時の主な各勢力の動員兵力はどうだったのでしょうか?

・上杉謙信 3万~3万6千

・織田信長 13万5千~16万

毛利輝元 10万~12万 但し、宇喜多直家等の兵も含んであり、完全に毛利の支配下にある勢力だけではなく、実数はもっと少ない

・北条氏政 5万~6万

・武田勝頼 2万~2万5千

・徳川家康 1万前後

正直、各勢力の兵力数は色んな記載があって統一されておらず、かなり主観をいれて数字を弾きだしました。

違うという方もいらっしゃると思いますが、一生懸命やったという事で、何卒ご勘弁を~

反信長勢力

さて、天正四年(1576年)9月に上杉謙信は祖父毛利元就以来中国地方の覇者として君臨している毛利家の当主輝元と本願寺光佐と反信長同盟を結んでいました。

本願寺は難攻不落の石山本願寺に立て籠もり、織田勢と死闘を繰り広げ、そこに毛利勢46千が応援にきていました。

そんな時に謙信の能登、加賀侵攻が行われたのです。

そして有名な「手取川の戦い」で織田軍を蹴散らしました。

この大勝ちで反信長勢力が活気づけられ、謙信に凄い期待を寄せました。

その後まもなく上杉謙信は他界しますが、もし生きていたらということで話を進めます。

関東平定戦

いよいよ関東出陣です。

この時の兵数も色んな説がありますが、「6~7万はあった」というのもありました。

越後と北陸道の関東遠征可能(織田氏や出羽の最上氏に対する備えの兵を除いた)な兵は、どう考えてもそんなにいない気がするのですが・・・

一緒に分析してみましょう!

・越後 39.1万石 9775人

・越中 38.3万石 9575人

・上野 49.6万石 12400人

合計 31750人

Ж能登と加賀の兵は織田への備えのため出陣は不可能と判断したため加えていません。

上杉の出陣可能な兵は31750人から出羽の最上に対して5000人を当てるとして、概算で26750人です。

あくまでも私の概算ですので、それは違うと怒らないでくださいね~

しかし今まで行われた関東出陣の兵力は8000人とされているので、それと比べれば大兵力です。

また、関東に進撃すれば進軍途中で結城氏、宇都宮氏に代表される、関東の在地土豪が次々と参陣、相当な兵力になります。

ともあれ、こうして天正六年(1578年)3月、謙信は関東に出陣しました。

北条は謙信には絶対合戦をしないので、小田原城に籠城します。

謙信は小田原城を包囲、佐竹氏、里見氏等の反北条の勢力が結集します。

以前行われた小田原城包囲戦の時と同じくらいの11万前後の兵が集まると考えられます。

しかし小田原城は落ちません。

謙信は和戦両様で考えていましたが、北条氏政は降伏しません。

 

フフフ、謙信が越後に帰ったら、獲られた城を取り返してやる!いつものパターンじゃ

馬鹿め。それ位読んでいるわ。しっかり城の防備を固め、兵も充分に配置しておるわい

 

そのため謙信は10月頃には雪が降るため、越後に帰国しました。

なお、農民兵は農閑期でも外征できたそうです。

上杉勢も一年中戦えたわけですね!

西上作戦

上杉軍の弱点は、謙信がいないとそれほど強くないというごとが挙げられます。

これは関東を再び主導権を北条に握られてしまいかねません。

そこで武田勝頼の出番です。

勝頼は長篠合戦の後に謙信から優しい書状をもらい、涙したとされています。

謙信には好意を持っています。

そこで武田氏と同盟を結びます。

武田勝頼は謙信の後を継いだ景勝と同盟を結んだことを考えれば、ほぼ確実に謙信とも同盟するでしょう。

この武田と佐竹、里見で北条を攻撃するのです。

無論不確定要素はありますが、牽制程度には充分なると思います。

武田には徳川と言う敵がいますが、兵数も違うし、勝頼は名うての戦上手!

徳川を圧倒し、北条の脅威になるはずです。

織田信長の天正六年の動き

画像

織田信長の天正六年はとても忙しい。

見習え!儂はこんな大仕事をしたぞ!

・播磨国の別所長治の謀反 ⇒  鎮圧

・摂津国の荒木村重の謀反 ⇒  鎮圧

・丹波国の波多野秀治との戦い⇒ 丹波平定

・安芸国の毛利輝元との戦い ⇒ 播磨国大部分を攻略、宇喜多直家従属

信長ならではの凄い戦果ですね!

これで中央には本願寺以外には大きな敵はいなくなってしまいました。

天下統一に着々と進んでいるといっていいでしょう!

織田信長との対決

天正七年3月、上杉謙信はいよいよ上洛を始めます。

さて、謙信の西上作戦の動員兵力はどれくらいになるのでしょうか?

本隊 26000人

能登 5250人

加賀の一部 5000人

合計 36250人

ちょっと厳しいかもしれませんが、北条が健在な以上関東の兵は上野国以外は動かせないでしょう。

したがってこの兵数と分析しました。

うーむ、武蔵の兵は北条に備えねばならん。信長の事だ。芦名と同盟しているかもしれん。だから下野の兵も動かせんのう

ともあれ謙信は36000の兵で北陸道を京へ向けて進軍、加賀を通り越前に侵攻します。

越前は柴田勝家が北陸方面司令官として北ノ庄城にいて、佐々成政、前田利家を率いていました。

柴田勝家では上杉謙信の進撃を妨げるのは役不足です。

信長はすかさず援軍に駆けつけました。

兵数は14万に「丹波26.4万石 6500人」を足し、秀吉の毛利攻めに2万(播磨国と宇喜多直家の兵を足して毛利に対抗)、石山本願寺に備える2万、領内の守備に3万程割くと、7万6500人もの大軍を上杉との対戦に充てることができます。

信長は越前北ノ庄城の近くを東西に流れる九頭竜川西方に陣を敷きます。

謙信は九頭竜川の東に陣を敷きました。

川を挟んで両軍睨み合ったのです。


九頭竜川の位置

魔王信長の凄さ

上杉軍は士気が高く、決戦体制を取っています。

戦の天才上杉謙信に兵数の差はあまり関係ありません。

戦は鉄砲の数や兵の数で勝敗が決するものではない

しかし九頭竜川を天然の堀とした織田軍の構えに隙はありません。

3月、4月が過ぎ、5月も終わりに近づいてきました。

むむ、信長め!まだ動かぬか

謙信は信長が動いたら、得意の天才的な相手の裏をかく戦法で織田軍を打ち破ろうとしていました。

その時謙信の耳に上杉領周辺の勢力が織田に付いたとの報が飛び込んできました。

ふふふ、戦馬鹿め!時代の勢いはこの信長にあり。下記を見てみろ!

上杉領周辺の諸勢力の状況

・越後北方の最上氏 織田家に従属

・下野北方の芦名氏 織田家に従属

・佐竹領常陸の北方伊達家 織田家に従属

・北条氏 織田家に従属(歴史上は天正8年3月)

残念ながら謙信は信長に戦略では一歩も二歩も遅れていた。

反北条の中心勢力の佐竹氏が、伊達氏と交戦状態になったことから北条氏は息を吹き返し、関東に軍を進める。

残念ながら謙信のいない上杉軍は弱い。

そのため関東は再び北条氏が主導権を握ることとなります。

残念ながら武田氏は長篠の戦いのダメージが未だ回復しておらず、徳川家康と戦うのに手いっぱいでした。

毛利氏は羽柴秀吉に圧倒され、石山本願寺は孤立してしまいます。

全ての構想が破れてしまったのです。

そこで謙信は四国の長宗我部氏に目を付けました。

近い将来織田氏と交戦することが間違いない長宗我部元親は、二つ返事で味方することを約束しました。

しかし謙信の版図は四方八方から攻撃される可能性があり、信長も睨み合いを続ける様子。

補給も気になりだしたこともあって春日山城に撤退します。

信長め!追撃してこないか。もし追撃してきたら、完膚なきまで打ち破っていたものを。用心深い奴め

九頭竜川の対決の後の両軍の動き

上杉謙信は兵を休め、天正7年(1579年)9月に3万の兵を率いて関東に出陣しました。

謙信にとって幸いだったことは、信長に従属した最上氏、芦名氏、伊達氏が、あまり積極的に動かなかったことです。

要は日和見です。

謙信は上杉の強さを見せつけねばなりません。

謙信率いる上杉軍が進軍すると、関東の在地土豪が参陣し、瞬く間に大軍となります。

そして北条氏の城を次々に落とします。

上杉謙信が生きていたら、このようなことは充分に可能でしょう!

こうして北条の力を削ぎました。

しかし小田原城は言うまでもありませんが、川越城や江戸城等のメインの支城も防備は強いので、謙信は相当てこずると思います

一方信長ですが、返す刀で石山本願寺を攻撃します。

石山本願寺は孤立した状態で、しかも8万近い新手の兵が来たのです。

負ければ長島一向一揆の例もあるし、皆殺しにされるでしょう。

本願寺教如は悩んだあげく織田との講和を受け入れ、とうとう石山本願寺を開城します。

これで反信長勢力が一つ減りました。

今後の展開についての推理

私の推理を述べましょう!

天正8年(1580年)、謙信は関東に出陣します。

北条氏政は父氏康の取った作戦通り防御に徹し、上杉軍が帰国するのを待つことでしょう。

残念ながら北条のメインの支城はなかなか落ちず、関東平定の可能性は低いと思われます。

一方信長はまだ戦意旺盛な上杉氏より、毛利氏と長宗我部氏を攻めるに違いありません。

毛利氏は秀吉の攻撃を受け弱っているし、毛利氏と交戦状態の九州の大友氏と挟み撃ちできるからです。

中国平定は時間の問題だと思われます。

長宗我部氏の兵力は4万とされています。

中国の情勢が織田有利に展開するでしょうから、長宗我部氏が屈服するのは、そんなに時間はかからないと思われます。

毛利が滅べば長宗我部は従属してくる可能性も多分に考えられます。

そして西国の形勢が織田に傾けば、奥州の諸将も積極的に上杉領に攻め込むでしょう。

信長は家康との戦いで疲弊した武田氏を攻め滅ぼし、信州と北陸道から上杉領に攻め込む。

最上が越後北方から攻め込む。

四方から大軍で攻められ、上杉氏は滅亡するというのが私の結論です。

上杉謙信は10年長く生きていたら天下を取れたのか?をまとめてみた

いかがでしたでしょうか。

今回は上杉謙信がもし10年生きていたら天下統一できた可能性についてまとめてみました。

なるべく客観的に判断していこうとしましたが、至らぬ点が多々あったと思います。

ただ一生懸命やりました。

その気持ちに免じてご勘弁を!!

最後に誤解される可能性があると思うので、一言言わせてください。

私は上杉謙信のフアンだー!!!

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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