山中鹿助

山中鹿之助(鹿助)の尼子再興に全てを捧げた戦いをわかりやすく解説

山中鹿之助はかなり名の知れた武将ですね。

「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈っていたエピソードが有名です。

また山中鹿之助が主家尼子再興のために、何度でも立ち上がる不撓不屈の魂も知られています。

しかし実態はどうだったのでしょうか?

中国地方の覇者毛利氏と、どう戦ったのでしょうか?

この記事は山中鹿之助について、本当の姿を追い求めて執筆いたしました。

併せて厳しい戦いもわかりやすく記しましたので、是非ご覧ください。

なお山中鹿之助の名前は「鹿介」が正しいですが、「鹿之助」の方で認識されている方が多いため、このコンテンツでは「鹿之助」で統一しました。

解説は兵法の大家、諸葛孔明さんにお願いしました。

諸葛孔明

皆様、よろしくお願いいたします。

山中鹿之助(鹿助)の尼子再興の戦いをわかりやすく解説

尼子氏の遺児勝久を主君に

永禄9年(1566)11月、尼子氏の居城月山富田城は毛利氏からなんと約5年も兵糧攻めをされ、これ以上籠城できない程弱体化してしまいました。

その状況から尼子氏当主義久は降伏を毛利元就に申し入れ、永禄9年(1566)11月28日に月山富田城は毛利氏に明け渡され、尼子氏は滅亡しました。

滅亡後の山中鹿之助の足取りは掴めていません。

永禄11年(1568)11月に、山中鹿之助は旧尼子家臣の叔父立原久綱と共に京都にいたことが判明しています。

そこで京都東福寺に新宮党の尼子誠久の遺児がいることを知り、還俗させて「尼子孫四郎勝久」と名乗らせます。

新しい主君の誕生ですね!

山中鹿之助の尼子再興の意欲は否が応でも高まったことでしょう。

永禄12年(1569)4月、毛利元就は北九州の大友宗麟と戦っていて、「吉川元春」、「小早川隆景」を中心とした大軍を派遣していました。

つまり尼子氏の故国出雲とその周辺は兵が手薄だったのです!

山名鹿之助 

今じゃ!尼子再興のため、我らの出雲に進出するぞ~毛利を倒すんじゃ!!

月山富田城を取り戻すべく出陣しました。

第一次尼子再興の戦い!

尼子再興のための出雲での戦い

山中鹿之助と尼子勝久は尼子再興のため、永禄12年(1569)の春に京都を出発し、故国出雲に入国しました。

さすがに尼子氏は山陰の名門!

出雲切り返しの檄を飛ばしたところ、たちどころに3千の将兵が集まりました。

諸葛孔明

これは毛利軍の大半は遠征中で出雲が手薄だったこと、80余年に亘って山陰を統治していた名門尼子氏のブランド力並びに尼子氏の善政が原因と思われます

出雲に入国した尼子軍は新山城を落とします。

山中鹿之助は尼子再興を高らかに宣言し、本陣を新山城に置いたのです。

次いで水陸交通の重要拠点である末次城を攻略しました。

勢いに乗った鹿之助は月山富田城攻略を目指します。

赤:新山城 黄:末次城 緑:月山富田城

尼子軍が本拠地新山城からじわじわと月山富田城に迫っていく様が見受けられます。

山中鹿之助

まずは月山富田城周辺に支城を築け!富田城を一気に攻略するのじゃ~

鹿之助は月山富田城の周囲(宇波、天馬山、布部山等)に支城を築城し、城攻めの準備を整えました。

赤:月山富田城 青:宇波 紫:天馬山 黄:布部山

月山富田城攻撃は7月初めに開始されました。

しかし尼子軍先鋒の秋上庵介は城番天野隆重の計略にはまり大敗しました。

山中鹿之助 

えーい、まだだ~今度は儂自ら行く

しかし月山富田城は難攻不落、城兵も奮戦したため落とすことはできませんでした。

また、出雲高櫓城攻め、岩見攻めも失敗。

いいところが全くない山中鹿之助の尼子再興の采配ですが、「原手合戦」に勝利します。

尼子方の月山富田城の包囲体制

月山富田城を包囲するように支城を築城しています。

青:月山富田城  赤:新山城  緑:布部城  

紫:高櫓城   黄:末次城

防長では大内輝弘が大友宗麟の援助で、豊後から上陸し毛利勢を攻め立てました。

毛利元就

うむ、さすがにまずいわい!仕方ない。九州に攻め込んでいる軍勢を呼び戻そう。そうだ。大友宗麟とも講和しよう。後顧の憂いを無くすのじゃ!

機を見るに敏な毛利元就は、朝廷、幕府を動かして大友宗麟と講和しました。

諸葛孔明

衰えたとは言え朝廷、幕府の権威は未だ健在で、大友宗麟殿といえども従わざるを得ませんでした。これで挟み撃ちの危険性は無くなりましたな

布部山の戦いでの致命的な敗北

永禄13年(1570)正月、九州から引き返し体制を整えた毛利軍は毛利輝元を総大将として吉川元春、小早川隆景が補佐して尼子討滅の軍を起こし、25000余の大軍で進撃しました。

尼子方は連戦連敗で、戦線はどんどん後退します。

山中鹿之助は尼子再興をかけて、布部山で毛利に決戦を挑みます。

この布部山の戦いは「尼子・毛利の国争い今日を限り」と「陰徳記」に評される激戦で、尼子勢は総軍7000で立ち向かいましたが、両川の巧みな采配により敗れてしまいます。

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布部山の古戦場
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布部山古戦場

山中鹿之助は尼子再興の戦略上、この一戦の前に「月山富田城」を落としておくべきでしたね。

「月山富田城」は少数の兵しかいなかったため、もし総力をあげて攻めれば制圧できたかもしれません。

諸葛孔明 

月山富田城は尼子のシンボル。攻略して拠点とすれば強力な求心力になったことでしょう!山中鹿之助殿の尼子再興の夢も叶ったかもしれません

ともかく毛利・尼子の関ヶ原と評された「布部山の戦い」の敗北後、尼子方は各地で敗北を重ねて城を落とされ、追い詰められていきました。

この時の毛利方の総大将は名将吉川元春で、尼子方がどう攻撃しても打ち破る名采配を見せました。

吉川元春率いる毛利軍に追い詰められ、とうとう元亀2年(1571)8月に、鹿之助が籠る尼子方の最期の拠点新山城が攻撃されて落城しました。

山中鹿之助は降伏し、尾高城に監禁されました。

しかし鹿之助はただの武将ではありません!

なんと赤痢になったといって一晩で百数十回便所に行き、

番兵が油断した隙を突き、便所の掃除口から脱出しましたのです。

山中鹿之助の尼子再興にかける思いの強さが伝わってきますね!

その後京都に行き、同じように敗走して京都に逃げてきた尼子勝久と落ち合いました。

主従は再起を誓い合ったことでしょう!

まだまだ山中鹿之助の尼子再興の志は熱いままであり、次の機会を模索しているのでした!

ともあれ山中鹿之助の第一次尼子再興のための戦いは2年2か月で終了しました。

第二次尼子再興の戦い

天正元年(1573)になると、織田信長が台頭しました。

山中鹿之助は尼子再興に織田信長の援助を受けようとして、信長に謁見、明智光秀の先陣を命じられました。

その頃山陰では、吉川元春が因幡と但馬を制圧し、ちょうど本拠の月山富田城に帰り、因幡は手薄になっていました。

これを見逃す鹿之助ではありません!

天正4年(1573)初冬、山中鹿之助は尼子再興の旗を掲げて因幡に侵攻しました。

鹿之助は桐山城を本拠地にして因幡各地を転戦、尼子旧臣がぞくぞくと集まってきたのです。

当時の因幡は武田高信が治めていました。

武田高信は山中鹿之助率いる尼子勢が籠る飯山城を攻めてきましたが、鹿之助は見事に撃退し、武田高信は本拠鳥取城に敗走しました。

そこでなんと山中鹿之助は追撃し、鳥取城を攻略しまたのです。

流石ですね!!!

そして若桜鬼ケ城等を落とし、因幡において着々と勢力圏を広げたのです。

まさに向かうところ敵なしといった状態でしょう!

山中鹿之助の第二次尼子再興の戦の展開図です。

青:桐山城 黄:飯山城 橙:鳥取城 緑:若桜鬼ヶ城

図を見ると一目瞭然!

かなり広範囲に軍事活動を展開していたようですね!!

山中鹿之助の指示の下、尼子再興の戦が積極果敢に行われたのが見受けられます。

しかし破竹の勢いもここまで!

天正3年(1575)8月、泣く子も黙る吉川元春と小早川隆景が因幡に攻めてきたのです。

こうなると尼子勢は歯が立たず、本拠地である若桜鬼ケ城を攻め落とされ、尼子勝久と山中鹿之助の主従は但馬に逃げ落ちました。

但馬での山中鹿之助の尼子再興のための動きを記した軍記物が無く、何をしていたかは今一分かりかねます。

ただ明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻撃や丹波籾井城攻撃に加わっていたとみられています。

いずれにせよ山中鹿之助の尼子再興の志は、またしても敗れました。

第三次尼子再興の戦い

上月城での尼子勢の戦い

天正5年(1577)初頭、遂に織田信長は毛利討伐に乗り出し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を総大将にして播磨に進撃させました。

羽柴秀吉は同年10月に姫路城に入城、山中鹿之助率いる尼子勢は秀吉軍に従軍しました。

秀吉は播磨の大半を短期間で平定し、続いて但馬も占領しました。

そして同年12月に運命の上月城を占領するのです。

上月城は規模の大きい城ではありませんが、備前・美作・播磨の境目の戦略上の用地に築城された重要な拠点だったのです。

そこで尼子再興に決死の覚悟を決めている山中鹿之助率いる尼子勢を置きました。

ここで上月城に立て籠もった尼子軍はどれくらいの兵数がいたのでしょうか?

諸説ありますが、上月城はそれほど大きな城郭ではありません。城の規模からして数百が妥当だと思われます!

小さい城とは言え重要拠点を任され、戦局が有利に進めば相応の恩賞が見込めた尼子勝久と山中鹿之助等の主従は、尼子再興の機会と思ったことでしょう。

しかし播磨の別所長治が毛利方に寝返ってしまい、秀吉軍の主力は長治が籠る三木城攻めに力を注がざるを得なくなりました。

この図を見てください。

青:三木城 赤:上月城

諸葛孔明 

上月城と三木城は大分距離が離れていますね!これは上月城が孤立している状況を意味しています。更に山間部にあることから、外部と遮断されやすいといえます

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上月城

尼子再興ならず!

この状況を見逃す毛利ではありません。

天正6年(1578)4月18日、毛利輝元が総大将として郡山城を出発、吉川元春と小早川隆景も合流し、3万もの大軍で上月城を包囲しました。

上月城は厳重に包囲され、外部との接触は絶たれました。

この事は早速信長に報告され、嫡男信忠を総大将にして援軍に向かわせました。

秀吉は援軍が到着すると三木城攻撃を任せ、自身は1万の兵を率い、上月城救援に向かい、上月城東側にある高倉山に布陣しました。

羽柴秀吉 

毛利は大軍にして、その陣立てに寸分の隙も無い。合戦では無理だ。よし、調略で切り崩そう!

竹中半兵衛と黒田官兵衛に備前、備中で調略を命じましたが、成果を上げることはできませんでした。

同年6月16日、秀吉は上洛して、織田信長にどうにもならない状況を報告し、指示を求めました。

織田信長 

猿、上月城はどうにもならん。見捨てい!三木城攻めに全力を尽くすのじゃ!

織田軍は三木城攻めで余裕がなく、上月城を助ける力はありませんでした。

どうにもならない状況だったのです。

秀吉は6月24日に三木城に向かって撤退しました。

結局7月3日に上月城は落城しました。

毛利方の開城の条件は、尼子勝久、氏久が切腹をしたら、城兵は助けるというものでした。

尼子勝久は切腹前鹿之助を前に、こう述べたとされます。

出家していた自分が、おのおのの心入れによって尼子を名乗り、大将を号することができたのは生前の本懐というもの、今どのようになろうとも、それは智謀の不足ではなく家運が尽きたからだ

陰徳太平記

こういって鹿之助達に感謝し切腹したと言います。

戦国の武士の心構えが感じられますね。

恐らく尼子勝久は、やり切ったという思いがあったのでしょう。

一方山中鹿之助は殉死するべきだが、吉川元春と刺し違えてから主君勝久の後を追うと考えていたといいます。

一矢報いたいという気持ちがあったのでしょう。

ともかく山中鹿之助の尼子再興の夢は破れました!!

山中鹿之助の最後

天正6年(1578)7月10日、鹿之助は上月城を出て毛利の虜囚になり、備中の毛利輝元の元へ護送されました。

その際、家臣進藤勘助に以下のような書状が残っている。

(進藤勘助が奮戦したことを感謝し)

少しも忘却しない。しかし主従の縁を切るから、どこへでも奉公するように

泣けてきますね。

鹿之助は強いだけではなく、情に熱い男だたのですね。

そういう所が現代でも人気のある原因でしょう!

7月17日、高梁川(甲部川)と成羽川の間にある合井の渡しで殺害されてしまいました。

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阿井の渡し

毛利方の鹿之助に対する警戒は厳重を極め、吉川元春には到底近づけないし、脱走も不可能な状況でした。

山中鹿之助の最後の様子は下記をご覧ください。

山中鹿之助の最後の状況

7月17日、山中鹿之助は阿井の渡しで休息を取り、川端の石に腰を掛けて行く末を思いながら、じっと水面をながめていた。

そうしたら突然毛利家家臣の河村新左衛門という剛力の士が斬りかかってきた。鹿之助はかわして川へ飛び込んだ。二人は水中で戦い、鹿之助は重でを負いながらも新左衛門を組み伏せた。

そこに大力の福間彦右衛門が背後から斬りかかりとどめを刺した。

陰徳太平記意訳

こうして我らがヒーロー山中鹿之助は最後を迎えたのである。

七難八苦の人生は僅か34年で終わりを告げた。

なお、小早川隆景は鹿之助を以下のように評価しています。

幸盛(山中鹿之助)は武略が備わりその器量も無双の勇士であるが、表裏の侍で今日は敵、明日は味方となる弓箭の本意に背く武士である」

「義残後覚」巻第六「綿抜左馬介鹿介を討給事」

小早川隆景は山中鹿之助を武将として最大級の評価しています!

敵から認められるのだから、山中鹿之助は名将の一人だといえるでしょう。

それ故小早川隆景は警戒し毛利輝元に殺害を主張、それにより刺客を送られて山中鹿之助は殺害されてしまったのです。

生かしておいたら、何をしでかすか分からないという畏怖があったのだと思います。

山中鹿之助の尼子再興のための戦いをまとめてみた

いかがでしたでしょうか?

山中鹿之助(鹿介)の熱い生き様を描きました。

尼子氏への忠誠は見事なものですが、不撓不屈の精神も凄まじいものがありますね。

もし阿井の渡しで斬られず生き延びたら、山中鹿之助は確実に4度目の尼子再興の旗を挙げるでしょう。

何があっても何度でも立ち上がる。

このどんな障害も跳ね返す、強靭な意思こそ鹿之助の最大の魅力であり、現代においても共感する人が多い所以だと思います。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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