武田信玄の名前を知らない人はあまりいないと思います。
前半生は信濃制圧に全力を傾けていました。
しかし上田原の戦いで村上義清に大敗してしまいます。
その武田信玄のダメージをつくことを狙って攻めてきた小笠原長時の軍勢との間で行われた戦が塩尻峠の戦いです。
今回は武田信玄と信濃守護職小笠原長時の間で行われた塩尻峠の戦いを解説いたします。
武田信玄のファンの方や用兵について関心のある方は、塩尻峠の戦いはかなりたのしめるのではないかと思います。
正確な記述をしたいため、当時の一次資料をふんだんに盛り込みました。
では、お楽しみください(^^)
武田信玄対小笠原長時の塩尻峠の戦いをわかりやすく解説
小笠原長時について
「小笠原長時」
小笠原長時のことを簡単に説明します。
小笠原氏は元をたどれば甲斐源氏で、いわば武田氏と同族です。
南北朝・室町時代に信濃守護となり、信濃において一大勢力となりましたが、信濃一国を支配するには至りませんでした。
そのためこの時期、信濃国では村上義清が勢力を伸ばしています。
小笠原長時は林城を中心に中信濃に勢力圏を築いていました。
当然武田信玄は佐久郡を平定したら、小笠原領に侵攻してくるでしょう!
あるいみ塩尻峠の戦いは、小笠原長時にとって領土防衛戦争だったかもしれませんね!
天文14年の頃の武田家と小笠原家との関係
武田家は信玄の父信虎の代から信濃侵攻を繰り返してきました。
天文14年(1545年)になると本格的になります。
武田信玄は伊那郡へ出兵、4月17日に高遠頼継が籠る高遠城を落としました。
さらに小笠原長時の娘婿の福与城の城主藤沢頼親を攻めました。
小笠原長時は福与城の北方の龍ヶ崎城を拠点にして武田方に応戦しました(「小平物語」)。
しかし武田信玄は今川・北条の援軍を呼び、兵数で優位に立ち、同年6月1日に宿老板垣信方が龍ヶ崎城を落とします。
これにより小笠原長時は抵抗する拠点を失い著しく劣勢になったため、本拠の林城に退却しました(『高白斎記』)。
小笠原長時は弓馬を取っては勇猛でしたが、軍隊を指揮する能力は余り無かったとされています。
武田信玄の敗戦
しかし武田信玄が村上義清に上田原の戦いで大敗しました。
更に上田原の戦いから2か月後の4月25日に村上義清が逆襲にでて、武田領の佐久郡に侵攻、村上方に付く豪族が相次ぎ、前線基地の内山城は焼かれ、前山城は落とされてしまいました。
上田原の戦いは天文17年(1548年)2月に行われました。
この戦いで武田信玄は大敗し、信玄が片腕と頼む諏訪郡の郡代板垣信方が討死にしてしまい、諏訪は混乱状態にありました。
その隙を突いて小笠原長時は武田領へ侵攻してきたのです。
下の地図を見てください。
青:諏訪上原城 緑:森城 黄:内山城 赤:塩尻峠 紫:林城 黒:箕輪城
上田原の戦いから僅か2か月後の4月5日に小笠原長時は村上義清と組み、安曇郡森城城主仁科道外を味方に付け、武田信玄に下っていた上伊那郡箕輪城主藤沢頼親を離反させて味方につけました。
更に4月25日に村上義清が逆襲にでて、武田領の佐久郡に侵攻します!
こうして小笠原長時は安曇・筑摩・上伊那郡の豪族と北信濃の村上義清との連合に成功し気勢を上げました。
勢いづいた小笠原長時は武田領諏訪へ侵攻し、6月10日、諏訪下社を占領しました。
ふふふ、武田め、手がでまい!よし、諏訪湖西岸の矢島氏、花岡氏も味方に引き込むぞ
7月10日、小笠原長時のもくろみは成功し、諏訪西方衆の矢島氏と花岡氏は武田信玄に反乱を起こしました。
武田家の諏訪統治の拠点上原城を落としかねない勢いですね。
こうして勢いに乗った小笠原長時は軍を塩尻峠に進めたのです!
武田信玄と小笠原長時の塩尻峠の戦いのお膳立てが整いましたね!
塩尻峠の戦いの経緯
7月11日、遂に武田信玄は出陣、塩尻峠に向けて進めました。
兵数は小笠原軍の方が武田軍より多かったのですが、寄せ集めだったため結束力が弱く、関係は悪かったとされています。
武田軍は甲斐国と信濃国の国境近くにある大井ノ森(山梨県北巨摩郡長坂町今井)で進軍をストップします。
赤:甲府 緑:大井ノ森 青:塩尻峠
ここでなんと六日間も動かなかったのです。
地図を見れば分かる通り、小笠原長時から見たら、武田信玄は塩尻峠の戦いに怯んでいると勘違いしてしまっても無理はないかもしれませんね!
武田信玄の塩尻峠への急襲
7月18日の夕刻、武田信玄は騎馬隊だけを率いて大井ノ森から出撃しました。
軍の移動は隠密裏に行われ、翌19日の午前零時から午前2時の間に暗闇の中、塩尻峠に到着した。
合戦場所は従来塩尻峠とされてきたが、近年の小和田哲男氏の研究で、塩尻峠の南側にある勝弦峠で行われたという説が浮上してきている。
合戦場所ははっきりとは判明していない。
いよいよ武田信玄と小笠原長時の塩尻峠の戦いが始まりました。
その合戦の模様を一次資料の「高白斎日記」と「守谷信実訴状」から分析してみましょう!
・武田軍の進軍が深夜であったため、その動きを察知できなかった小笠原軍は、その多数が討ち取られた(高白斎記)
・小笠原勢は、早朝のまさかと思っているところを強襲され、武具など着けている者は一人もなく、半分ていどの兵たちが刀で反撃しただけという状況だった(守矢信実』)
2つの資料から読み取ると、武田信玄は深夜に軍を進め、早朝に小笠原方に察知されることのないまま攻撃を開始!
その際鎧兜等を身につけている者はおらず(まだ寝ていて、甲冑を着ている小笠原方の将兵はいなかった)、小笠原軍の約半分の兵が刀で反撃しただけだったということがかいてありますね!
これは典型的な朝駆けといわれる戦法で、武田軍はまだ寝ている小笠原軍を急襲したのです。
戦いは方的に進行し、見事な勝利を収めた様子がうかがえます。
武田信玄が小笠原長時に与えた塩尻峠の戦いでの損失も、一次資料から見てみましょう。
・「妙法寺記」
悉小笠原殿人数ヲ打殺シ、被食候
意訳:小笠原勢を殲滅した
・「御頭之日記」
小笠原衆上兵共ニ千余人討死候
意訳:小笠原勢を2000人前後討取った
・壽斎記
御旗本衆能者共皆討死仕候
意訳:小笠原長時の旗本衆は全員討死にした
三つの資料を見ましたが、それぞれ内容が違います。
書斎記が一番妥当のように判断しますが、いずれにせよ武田信玄が塩尻峠の戦いで、圧倒的勝利を収めたことは間違いないことが分かります。
- 武田信玄は上田原の大敗の影響を、この大勝で払拭し、中信濃での影響力を強めた
- その結果、9月6日には諏訪から佐久へ侵攻して前山城はじめ13の城を落とした
- 小笠原長時は諏訪、伊那郡へ侵攻する力を完全に失った
- 天文19年(1550年)7月に武田信玄は小笠原長時の居城の林城を陥落させた。
塩尻峠の戦いの勝利は、ただ戦術上の勝ち戦というだけじゃなく、武田信玄が信濃に侵攻する上での戦略上の大きな価値を伴うものとなっているといえるでしょう!
武田信玄対小笠原長時の塩尻峠の戦いをまとめてみた
いかがでしたでしょうか。
武田信玄と小笠原長時の塩尻峠の戦いは、武田信玄の見事というしかない采配により、武田方の大勝利に終わりました。
この戦いで小笠原長時は大きなダメージを受け、急速に勢力が衰えてしまいます。
反面武田信玄は中信濃に強力な影響力を持つようになり、信濃制圧のための大きな地盤を築くことになりました。
その着実な戦略は、現代の我々も学ぶところがあるかもしれませんね!
また、武田信玄に触れていきたいと思います。
最後までご覧くださりありがとうございました。