北条早雲という人物をご存じでしょうか?
・下剋上の典型的人物
・北条5代の繁栄の礎を築いた人物
そんな印象を持つ方が多いのではないでしょうか?
近年の研究により、様々なことが解明しつつあります。
そこには今までとは別の人物像がありました。
この記事では新たに判明したことを含め、北条早雲がどんな人で何をしたのかをわかりやすく解説していきます。
また、北条早雲の性格が滲み出ている逸話も併せてご紹介いたします。
北条早雲はどんな人?どうやって戦国大名になったのか?
出自と幼年期が定説とは違うようだけど・・・
北条早雲は今まで永享4年(1432年)に誕生したとされてきました。
しかしなんと、近年の研究では康正2年(1456年)に誕生したという説が定説となっています!
そして更に今までは北条早雲は一介の貧乏浪人から戦国大名になった下剋上の典型的な人物と認識されていたが、足利幕府の政所執事を務めた名門伊勢氏の支流の出だという説が浮上してきています!
北条早雲の名前
・本名 伊勢盛時
・通称 新九郎
・号 早雲庵宗瑞
意外と知られていないと思いますが、伊勢姓から北条姓に改姓したのは、2代目の氏綱です。
ですので早雲は「北条早雲」とは名乗っていなかったのです。
今回は早雲が「北条早雲」として広く知られているため、「北条早雲」で統一します。
なお鎌倉幕府の執権だった北条家とは何も関係はありません!
北条早雲は備中荏原荘(現井原市)で生まれ育ったといわれています。
10歳ぐらいの時の応仁元年(1467年)に京で応仁の乱が起きます!
ここで駿河守護今川義忠が上洛してきました。
どこでどういう縁があったのかは伝えられていませんが、今川義忠と早雲の姉(妹)の北川殿は結婚したのです。
そして北川殿は今川氏親を生みました。
北条早雲の甥というわけですね。
東海の大大名今川家の縁者になったのは、北条早雲の将来に大きなメリットとなるのです!
北条早雲の駿河下向
応仁の乱の最中の文明8年(1476年)に、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで遠江の守護、斯波義廉の家臣横地氏、勝間田氏の襲撃を受けて討ち死にしてしまいました。
今川義忠には北条早雲の姉(妹)の北川殿との間に設けた龍王丸がいます。
しかし龍王丸(早雲の甥、後の今川氏親)はまだ幼い。
そのため小鹿範満(今川義忠の従兄弟)を擁立する家臣がでてきたため、今川家で家督争いが起こりました。
そして堀越公方と扇谷上杉家が小鹿範満につきました。
当然龍王丸は形勢不利となります。
幕府は今川家の家督争いを止めようとして、北川殿の兄(弟)である北条早雲を駿河に行かせたのです。
北条早雲は調停を行いました。
この時の北条早雲がどんな人かというと、将軍に直接仕える高級官僚という立場でしたが、まだ20歳という若輩でした。
しかし調停では見事な手腕を発揮し、龍王丸が成人するまで小鹿範満を家督代行とすることで鮮やかにまとめました!
なお、この時の北条早雲の身分は以下の通り!
9代将軍足利義尚の申次衆をしていて、長享元年(1487年)から奉公衆となり、京都で幕府に出仕していた
家督争いを収める
再び今川家で家督争いが起こる。
なんと!!龍王丸が15歳を過ぎて成人しても、小鹿範満殿は家督を譲ろうとしなかったのです。
長享元年(1487年)に北条早雲は再度駿河へ下向し、龍王丸をサポートしました。
おのれ小鹿範満~調停を破るとは!!調停通り龍王丸を今川家の当主にしたいが、中々有利にならぬ。えーーい、討取ってしまえ
同年11月、北条早雲は駿河館を攻撃、小鹿範満とその弟小鹿孫五郎を討伐したのです!
小鹿兄弟を討取ったことにより、龍王丸は今川氏親となり、正式に今川家の当主となりました。
そして北条早雲は今川氏親の家臣となり、興国寺城(沼津周辺)を恩賞として与えられました。
この一件で今川氏親から信頼され、今川家中でも中心的な存在となりました。
「思った通りにいったわい」と早雲はほくそ笑んでいたかもしれませんね!
堀越公方を打ち破り伊豆国を奪取
延徳3年(1491年)に伊豆国の堀越公方・足利政知が他界すると、後継者争いが勃発しました。
足利政知には三人の息子がいます。
1.茶々丸(側室の子)
2.清晃(正室の子)
3.潤童子(正室の子)
この内次男の清晃は出家して京にいました。
足利政知は健在な時に後継者を潤童子と指名していたのです。
しかし長男の茶々丸が、正室の円満院とその息子の潤童子を殺害して力づくで跡目を継いでしまったのです。
このとき京でも明応の変が起こります。
管領の細川政元が第10代将軍足利義稙を追放し、第11代将軍に足利義澄を擁立しました。
この足利義澄こそ清晃なんです。
足利義澄は当然母と弟の敵討ちがしたい。
そこで茶々丸討伐を近隣の伊豆に城を持つ北条早雲へ命じたとされています。
これで伊豆侵攻の大義名分を手に入れたぞ!伊豆に進撃じゃ~
北条早雲は今川氏親の協力を得て伊豆に侵攻、見事に平定いたしました!
だが茶々丸方の勢力を駆逐して、伊豆国を完全に平定するのに20年かかったとされています。
伊豆侵攻が進むと、高札を立てて自分の方針を書くという斬新な方法で伊豆国の武士と領民の心を引き寄せました。
北条早雲がどんな人かを考察する上で、このような新しい感覚の持ち主であったということは、大変重要なことといえるでしょう。
- 「味方になれば本領を安堵し、ならなければ田畑を荒らして住居を破壊する」と伊豆の国中に高札を立てた
- 敵の病人を看護した。
- 兵の乱暴狼藉を禁止させた
- 年貢を四公六民にした
これにより治安が乱れていた伊豆は安定し、伊豆の武士や領民はとても喜び、北条早雲に味方したのです!
味方がいなくなった茶々丸は甲斐国へ逃亡したが、後に早雲に殺害されます。
相模進出
北条早雲が伊豆国を平定した時の関東管領は、上杉定正(扇谷上杉)でした。
そこで早雲は隣国の相模国を領国としていた扇谷上杉家と手を握り、勢力拡大を企てたのです。
ちなみに扇谷上杉家と山内上杉家は激しく対立しており、その間隙をついて台頭していく隙はいくらでもありました。
明応3年(1494年)北条早雲は上杉定正と共に関東管領上杉顕定(山内上杉家当主)と荒川で対峙します。
しかし上杉定正が落馬して死去してしまったのです!
そのため伊豆に退却するしかありませんでした。
これよりは当主の上杉定正殿が戦死して弱体化した扇谷上杉家の所領を狙おう。まずは隣国の相模国、小田原城だ~
昨日の友は今日の敵!
こんなところも北条早雲がどんな人かを語るうえで欠かせないものですね!
小田原攻めと相模侵攻
まず北条早雲が狙ったのは、扇谷上杉方の大森藤頼の小田原城を中心とした所領です。
早雲は大森藤頼を信頼させて、突如として小田原城を攻撃、見事に奪取しました。
小田原城奪取の時は、明応4年(1495年)9月とされていますが、未だ明確なことは分かっていません。
小田原城奪取後は扇谷上杉氏に協力し、相模国や武蔵国に援軍として出陣しました。
また今川氏親の家臣として甲斐や三河に出陣しました。
1509年(永正6年)以降は今川氏親の家臣という立場での動きはほぼ見られなくなり、早雲は相模統一に専念しました。
相模国の平定と晩年
小田原城を落とした後、1504年に主君今川氏親と武蔵国に扇谷上杉家への援軍に出陣しました。
そして「立河原の戦」で、山内上杉顕定に見事に勝利している。
扇谷上杉家と山内上杉家は一時的に和睦しましたが、再び敵対するという大混乱が生じました。
その混乱に乗じて北条早雲は扇谷上杉家との同盟を破棄、扇谷上杉家の上杉朝良の居城武蔵国江戸城を攻めようと出兵したが、上野に出兵していた上杉朝良が戻ってきてしまいました。
北条早雲と上杉朝義との間で戦いが始まるが、珍しく北条早雲は敗走します。
この戦いの後、再度和睦した両上杉家と対立関係となり、所領を攻められて小田原城に迫られる危機に陥ってしまいました!
まずい!どうする!!そうだ、和睦しよう
北条早雲は扇谷上杉家と和睦にこぎつけて窮地から脱しました。
小田原城攻略後(1495年)、北条早雲は相模を統一するために、東相模を領有していた三浦義同と戦いました。
なんと約20年も相模一帯で戦いを繰り広げました!
永正13年(1516年)、遂に三浦義同・義意父子の篭る三崎城を激戦の末攻略。
三浦父子は討ち死にしたのでござる。
遂に北条早雲殿は相模一国を手に入れたのです!
永正15年(1518年)に家督を嫡男北条氏綱に譲ります。
翌年永正16年(1519年)に北条早雲殿は64歳で他界した。
北条早雲はどんな人だったのか?逸話から探る
家中をまとめるため『早雲寺殿廿一箇条』を定める
北条早雲は家中をまとめるため、『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定めた。
全21ヶ条からなり、分国法としての側面もありました。
主なものを上げてみますね!
・朝は早く起きること
・夜は早く寝ること
・礼拝を欠かさぬこと
・質素倹約を旨とすること
・身だしなみを整えること
・主の前で談笑する等、思慮分別のない行動を慎むこと
・嘘をつかぬこと
・友とする者は良く選ぶこと
・門の管理を徹底すること
かなり細かいですね~
早雲の几帳面な性格が出ているのでしょうか?
私には教育者の一面もあるのかなと思いました。
領民を思いやる優しさを持っていた
また、領内では戦国大名が行った、もっとも古い検地とされる指出検地(土地面積や年貢量を自己申告させる検地)を実施している。
そして北条早雲殿は死の前年から、虎の印判状を使用。
印判状が無ければ、郡代・代官の徴収命令は効果が無いとし、領民への過剰な搾取をできなくしました。
領民が安心して暮らせる国造りを目指したといっても過言ではないでしょう。
小田原城を火牛の計で陥落させた!?
大森藤頼は当初は北条早雲にかなり警戒していました。
頃はよし!
よし!藤頼に進物を送って油断させてやろう(ΦωΦ)フフフ…
大森藤頼は段々と気を許し、親しくなっていきました。
藤頼殿。箱根山で鹿狩りをしたい。藤頼殿の領内に勢子を入れさせてくだされ
藤頼は快く許した。
早雲は好機とばかりに強兵を勢子に化けさせ箱根山に潜ませる。
その日の夜、早雲は火牛の計を実行しました。
千頭の牛の角に松明を灯して、箱根山に潜んでいた兵士が小田原城へ迫り、鬨の声を上げて火を放ったのです。
この火牛の計に大軍が攻撃してきたと勘違いしてしまい、士気を喪失した小田原城の兵士たちは逃走、藤頼も混乱して城から逃げ出したとされています。
こうして早雲は大した損失もなく、小田原城を攻略したという逸話がある。
しかしこういう話は幾らでもあるため、創作ではないかとの説もあります。
北条早雲がどんな人かを簡単にまとめてみた
いかがでしたでござろうか!
北条早雲の誕生から最後までを簡単に解説いたしました。
戦国随一の器量人で今川家の家臣という身分から始まり、幾多もの戦いを経て伊豆と相模を領有する戦国大名に成り上がった。
軍事面で余程優れた才能があったのでしょう。
野心だけではなく、領民を大切にして善政を敷く。
そして北条5代の繁栄の礎を作ったのです。
北条早雲がどんな人かという答えは、一言で言えば典型的な名君といえるでしょう!
北条早雲ならではのことですね。
北条家に関しては、また執筆したいと思います。
最後までご覧いただき、誠に感謝いたします。