戦国時代

武田信玄の数少ない敗戦!上田原の戦いはこう行われた!

武田信玄といえば戦上手として有名ですよね!

戦国最強とも評されるほど!

本拠地甲斐国から信濃国に侵攻し、無敵の強さで版図を広げていきます。

そこに立ちふさがったのが、村上義清という武将です。

武田信玄が村上義清に上田原の戦いで一敗地に塗れたことは有名ですが、どのように戦が展開していったのかまでは、そんなに知られていないように思います。

そこで武田信玄の上田原の戦いについてわかりやすく解説いたしました。

最後までお読みくだされば光栄です。

武田信玄と村上義清との上田原の戦い!

村上義清とはどんな人?

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村上義清肖像画

村上氏は清和源氏の流れを汲む名族で、鎌倉期には幕府の御家人だったとされています。

室町期に居城を植科郡の葛尾城に移しました。

村上氏は徐々に勢力を拡大し、村上義清は植科郡、高井郡、水内郡、更級郡を領国化し、北信濃最大の勢力に成長させました。

更に小県郡にも勢力を広げ、村上氏全盛期を築きます。

かなりのやり手ですね!

また村上義清は長槍の達人とされています。

後に川中島の戦いで上杉軍に参加しますが、武田信玄の弟の武田信繫を討取ったといわれるほどの猛将とされています。

武田信玄の信濃制覇の最大の難関といえるでしょう!

上田原の戦い

合戦の序章

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天文17年に遂に武田信玄は上田原で村上義清と激突します。

2月1日(1548年3月10日)、武田信玄は5000の軍勢を率いて甲府を出発、途中板垣信方の諏訪衆、小山田信有の郡内衆と合流して大門峠を越えて小県郡南部に進みました。

兵は約7000余りと伝えられます。

一方、村上義清も居城の葛尾城を出発、上田平に進み、産川(千曲川支流)を挟んで武田方と向き合いました。

村上方の兵数は武田方の兵数と同じ7000余りかやや少ないものとされています。

大体兵数は同じですね!

ただ武田軍には以下の不利な点がありました。

・武田信玄の不利な点は将兵に上田原までの遠征の疲れがあった。

・上田原の地形は武田信玄よりも村上義清の方がはるかに詳しかった。

2月14日、武田信玄は先鋒を最も信頼している板垣信方にして、上田原を進撃させました。

参加武将

栗原左衛門尉

飯富兵部少輔

上原昌辰(小山田虎満)

小山田信有

武田典厩信繁

板垣信方は無敵の勢いで村上勢を蹴散らし、第一陣を突破。

更に突入し、敵兵250を討取る大戦果を挙げました!

このまま武田の勝利かと思われましたが、板垣信方はどうしたわけか味方から離れた備えの外に出て首実検を始めたのです。

なぜ合戦の最中にそんなことをしたのか?

その理由は、板垣信方が連戦連勝で増長して油断してしまったと認識されています。

また、首実検ではなく板垣信方が敗走する村上勢を追撃して深追いしてしまい、村上勢に包囲されて討取られてしまったという説もあります。

しかし上記の説とは全く異なり、不慣れな雪中での戦いによるものとする説があります。

合戦時上田原は深雪に覆われていました。

雪中での戦いに不慣れで地理に疎い武田軍は、地元で雪の中での戦いに慣れた村上軍に圧倒されてしまい、板垣信方も討取られたとの説です。

管理人の個人的な意見としては、板垣信方は不慣れな雪中での戦いで村上軍に圧倒されて討取られてしまったという説を推します。

板垣信方程の武将が、戦の駆け引きを誤るはずがないというのが根拠ですが、皆さんはどう思われますか?

いずれにせよ、武田信玄の右腕板垣信方は上田原で討死にし、先鋒は崩れました。

合戦の趨勢

村上義清
村上義清
敵の先方は崩れたぞ~好機じゃ!攻め込め~

板垣信方が討取られたことにより武田の陣形は崩れ、とうとう本陣まで攻め込まれました。

武田軍旗本は崩れましたが、脇備えの内藤昌豊と馬場信春が突撃してくる村上勢に横槍を入れて奮闘し、なんとか村上軍の攻撃をはね返したという状況で、信玄が討取られるかもしれない危機一髪の状況でした。

その時武田信玄は左腕に村上勢の槍で2ヶ所の傷を負ってしまったとされています。

武田信玄

危機一髪じゃった!!しかし板垣信方と甘利虎泰を討死にさせてしまった

武田信玄はこの上田原の戦いで、板垣信方と甘利虎泰だけではなく、才間河内守と初鹿野伝右衛門といった重臣も失ったとされています(勝山記)

一方村上勢も損害が大きく、村上軍も屋代基綱・小島権兵衛・雨宮正利等の重臣が戦死しました。

将兵の損失は甲陽軍鑑によると、武田勢が700人あるいは1200人、村上勢が300人あるい1700人とされ明確な数字は判明していないようです。

いずれにせよ大激戦であったことは間違いないようですね!

武田信玄は上田原で懸命に軍の態勢を立て直し、20日前後も踏み留まりました(この事は武田側の記録の勝山記に「シハヲ踏」と記されている)

その理由として安易に退却したら、村上方に追撃されることを警戒していたのではないかと推測されています。

また当時の合戦では先に退却した方が負けという認識がなされているため、武田信玄は容易に退却できなかったのではないかとの見方もあります。

武田信玄の上田原の戦いをまとめてみた!

いかがでしたでしょうか。

今回は武田信玄の上田原の戦いをまとめてみました。

上田原の戦いは合戦上手の武田信玄の数少ない敗戦の一つで、どうして杯9千に至ったのかについて関心のある方がいるのではないかと思いました。

この戦いは非常に重要な一戦で、武田軍が敗北したことにより、反武田の勢力が勢いづき、佐久はもとより諏訪まで反乱が起きます。

かなり追い詰められた武田信玄ですが、小笠原長時を塩尻峠の戦いで打ち破り、息を吹き返しました。

その後またしても村上義清に一敗地に塗れるのですが、管理人もこの武田信玄の展開には非常に興味を持つところです。

また、武田信玄に関する記事を書きたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。