北条氏康

北条氏康とはどんな人?相模の獅子の戦に明け暮れた生涯とは!

北条氏康は関東北条家の最盛期を作った人物として有名ですよね!

また、川越の戦いで上杉氏の大軍に勝利したことでも名が知られています。

近年では「相模の獅子」とも評され、クローズアップされてきた武将でもあります。

ただ北条氏康をそれほど詳しくないという方もいらっしゃるのではないでしょうか?

余り詳しくないという方に北条氏康がどんな人なのかをご紹介したいと思いこの記事を執筆いたしました。

楽しんでくれれば光栄です。

北条氏康とはどんな人?相模の獅子の戦に明け暮れた生涯とは

年表

1514年  北条氏綱の嫡男として生まれる

1530年  小沢原の戦いで扇谷上杉軍と戦い初陣を飾る

1538年  駿河の今川義元と仲たがいして駿河で合戦に

     及び河東を手に入れる

     また扇谷上杉氏の本拠地である川越城を攻めと

1538年 第一次国府台(こうのだい)で足利・里見連合軍

     と戦い勝利

1541年  北条氏綱、病により死去。享年55。

      北条氏康が名実ともに当主となる

1546年  川越の戦い

1551年  上野に侵攻 

      関東管領上杉憲政の居城平井城を落とす

      上杉憲政が上杉謙信を頼ったため、上杉謙信

      と関東の覇権をかけて争うようになる

1554年  三国同盟(北条、武田、今川)を締結する

1559年  息子氏政に家督を譲る(実権は氏康が握った

      まま)

1561年  上杉謙信の小田原城攻撃

1564年  第二次国府台の戦いで里見義堯と戦い勝利

1567年  氏政が里見義弘と戦ったが敗北(三船山の

     戦い)

1568年  武田信玄が三国同盟を破り今川家に攻め込む。

     そのため武田家と対立し、駿河で戦うように

     なる

1569年  武田信玄に小田原城を包囲されるが守り切る

      退却する武田軍を追撃するが、「三増峠」

      大敗する。(大将は北条氏政)

1571年 北条氏康は病が悪化し他界した。

     氏政が後を継ぐ。

相模の獅子と呼ばれた北条氏康の強さ

北条氏康は北条早雲の孫として有名です。

年表を見て分かる通り、戦に明け暮れた生涯を送った人だと言えるでしょう!

どの戦いも北条氏康の強さを表われています。

その中でも特に有名なのが川越の戦いでしょう!

言いかえれば最も氏康にとって危険な戦だったのです。

川越城がどのような城だか見てみましょう!

川越城の本丸御殿

川越城中の門堀跡

画像

門の向こうには水堀が設置されていますね!

典型的な平城だということが分かります。

しかし堅牢な城郭というイメージはとても湧きませんが・・・

城主北条綱成と城兵の頑張りで半年にも渡る籠城に耐えたということでしょうか?

この川越城の戦いは山内上杉家と扇谷上杉家、今川義元、古河公方足利晴氏の連合軍が、約8万以上の兵で北条家を攻撃してきたのです。

上杉連合軍八万は北条家を圧倒、川越城を包囲しました

城主は北条綱成で将兵は僅か3千でしたが、善戦し半年も粘りました。

ようやっと北条氏康が救援に駆けつけてたが、将兵は8千しかいませんでした。

城兵も疲弊していました。

北条氏康

うーむ、敵は8万、我が方は8千!まともにやっては勝ち目はない。城兵も疲れ果て、このままでは落城する。何か策を練らねば!!

そこで「降伏する」といって敵を油断させて、夜襲をしたのです。

この夜襲は北条方の大勝利となり、扇谷上杉家の当主上杉朝定は戦死してしまいました。

これが有名な「川越の戦い」と言われる戦で、北条氏康の戦での強さがもっとも発揮された戦と言えるでしょう。

ちなみにこの戦いは日本三大奇襲の一つとされている。

この一戦で北条家と関東管領である上杉家との勢力関係は、完全に北条家に傾きました。

上杉謙信との激しい戦い

北条家の最盛期を作り上げた氏康ですが、関東を制覇するために三国同盟を締結しました。

三国同盟をわかりやすく説明すると、1554年に北条氏康が武田信玄、今川義元と縁戚関係になることにより、軍事同盟を締結した同盟のことです!

緑:小田原城 橙:駿府城 黄:甲府

このマップを見てください。

北条氏康の本拠地小田原城の西方の勢力の今川義元と北方の武田信玄と同盟することにより、完全に後顧の憂いが無くなりました。

この同盟により北条氏康は全軍を関東に向けれるようになったのです。

付け加えると、武田信玄は北方の信濃へ、今川義元は西の尾張への侵攻に専念でき、三者にとって都合の良い同盟でした。

三国同盟を締結し関東に本格的に侵攻しようとしていた北条氏康でしたが、思わぬ強敵が立ち塞がります。

越後の龍上杉謙信です。

上杉謙信と言えば、軍神とも評される戦国最強ともいわれる武将!

北条氏康はやっかいな男を敵に回したと思った事でしょう。

北条氏康

上杉謙信は強敵じゃ!皆の者籠城せよ。そして上杉軍の補給部隊を攻撃せよ

上杉謙信は小田原征伐を実施します。

しかし小田原城を初めとする諸城の守りは堅く、上杉謙信の猛攻を退けました。

その後上杉謙信は鎌倉で関東管領に就任、関東進撃の大義名分を得て、何度も関東に進撃してきましたが、北条氏康は一歩も退くことなく領土を守り抜きました。

武田信玄との激しい戦い

武田信玄と言えば、天下統一に燃える野心に満ちた武将!

信玄は永禄11年(1568)に三国同盟を破棄し、桶狭間の戦いで倒れた今川義元亡き後の弱り切った今川家を攻撃しました。

武田軍はあっという間に駿河を占領!

北条氏康は今川家を支持することに決めました。

北条氏康

おのれ~信玄、許さんぞ~こうなったら徳川家康殿と組んで駿河を挟み撃ちにしてくれる

武田信玄

さすが氏康!挟み撃ちされたのでは手も足も出ない。無念じゃが引き上げよう

こうして武田軍は引き上げていきました。

しかし永禄12年(1569)、武田信玄が再び関東に攻め込んできました。

そして小田原城の攻撃までしてきたのです。

さすがに小田原城は落ちませんが、武田軍が本拠地甲斐国へ向けて撤退を始めた時に、北条氏康は嫡子氏政を大将にして追撃をさせました。

三増峠に布陣している北条氏邦、氏照と挟撃する作戦です。

この図面を見てください!

赤:甲府  緑:三増峠  青:小田原城

武田信玄が三増峠から甲府まで撤退するのに、かなりの距離がありますね!

もし三増峠の戦いで敗北していたら、武田信玄は北条軍に追撃され討死にしていたかもしれません。

しかし武田信玄は荷駄隊の荷物を捨てさせて軍隊の移動速度を速め、三増峠に攻め込みました。

その結果、北条氏政の部隊は戦闘に間に合わず、三増峠に布陣していた氏邦、氏照は大敗してしまいました。

その後武田信玄は駿河に出兵、その大半を手中に収めました。

北条氏康は武田信玄に小田原城まで攻め込まれたことに、上杉謙信以上の脅威を感じていたのかもしれませんね!

北条氏康は亡くなる直前氏政に、「武田と同盟せよ」と遺言を残したといいます。

北条氏康は傷だらけだった

北条氏康は元亀元年(1570年)8月頃から中風とみられる病に羅漢し、翌年10月3日に57歳で他界しました。

とても勇敢な武将であり、36回も戦をしましたが、一度たりとも背を見せることはなかったといわれています。

そのため全身傷だらけになっていますが、その傷は全て前面にあり、2ヶ所の顔の傷は「氏康疵(うじやすきず」と称され、勇敢な証として表現されました。

相模の獅子と言われるだけのことはありますね!

氏康らしい逸話

北条氏康は戦国大名らしくストイックに生きていたようです。

その考えがよく出ているのが酒に関する家臣への教訓です。

「酒は朝に飲め」

ちょっと何のことか分かりませんね(笑)

その意味は、

意味は寝る前の飲酒は深酒をしやすいからしてはいけない。

深酒は失敗につながりやすい。

という意味です。

堅い氏康らしい教訓ですね!

北条氏康を簡単にわかりやすくまとめてみた

いかがでしたでしょうか。

今回は相模の獅子こと北条氏康がどんな人かについて、簡単にまとめてみました。

氏康の人生は戦いに次ぐ戦いの日々ですね!

特に川越の夜戦!

氏康の勇敢さが凄く出ていた戦だと個人的には思っています。

また、武田信玄や上杉謙信と対等にやりあったのも、評価されるべきでしょう。

北条氏康は実力に比して、評価が低いように思えます。

このサイトを読むことにより、北条氏康に多少なりとも関心を持たれる方が増えたら幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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