山県昌景

山県昌景がどんな人かを簡単にわかりやすく解説!誕生から最後まで

山県昌景をご存じでしょうか?

武田信玄の名臣(武田四名臣)として有名ですよね!

一番知られているのは長篠の戦いでの勇猛な戦振りではないでしょうか?

残念ながら長篠の戦いで昌景は壮烈な戦死を遂げています。

そのような生きざまを送った山県昌景とはいったいどんな人だったのでしょうか?

誕生から最後まで解説していきたいと思います。

山県昌景がどんな人かを簡単にわかりやすく解説

年表

1529年     甲斐国にて出生

父は特定されてはいないが、武田信虎に仕えていた飯富道悦の息子・源四郎とされている。

1552年     騎馬150騎の侍大将に抜擢

1565年10月   武田義信と飯富虎昌の謀反を告発

同年       山県昌景と改名する

1569年      駿河江尻城代となる

1751年      三河、遠江に侵攻する

1573年 1月   三方ヶ原の戦い

1573年 5月   武田信玄死去

1575年 6月   長篠の戦いで戦死

山県昌景の前半生

山県昌景は軍事、外交、内政等あらゆる面で活躍した武田家の名臣です。

武田信玄、勝頼の2代に亘って仕えました。

最初は武田信玄の近習、その後使番として仕えます。

武田信玄の伊奈攻め(信濃)が初陣で、神之峰城の攻城戦で一番乗りの功名を立てたとされます。(甲陽軍鑑)

天文21年(1552年)に信濃攻めの功績が認められ、騎馬150騎を任される侍大将に抜擢されます。

兄・飯富虎昌は武田家中屈指の猛将であったが、山県昌景は兄に匹敵する武勇を発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」と評されました。

ところで山県昌景は身長が140cmだったことはご存じでしょうか?

当時の平均身長が160cmだったとのことですので、相当の小兵です。

身体的不利を生来の猛々しさでカバーしていたんでしょうね!

兄の飯富虎昌の謀反と赤備え

山県昌景はとても忠義に厚い武将で、武田信玄とは盤石の信頼関係を構築していまいた。

そのことを象徴するのが嫡男義信の信玄暗殺計画です。

この計画には昌景の兄・飯富虎正が首謀者として加わっていましたが、昌景は兄より信玄を選び、暗殺計画を報告しています。

昌景の行動により暗殺計画を失敗させ、永禄8年(1565年)1月に兄の飯富虎昌は切腹、武田義信は幽閉の後自害しました。

この時の勲功により、兄・飯富虎昌の赤備え部隊を引き継いだのです。

また、断絶していた山県氏の名跡を与えられて、飯富昌景から山県昌景と名を改めました。

昌景は部隊の軍装を赤一色に統一し、戦場での勇猛な振る舞いから諸大名に恐れられました。

そして赤備えは最強部隊の代名詞となりました。

山県昌景亡き後、井伊直政や真田信繁も赤備えを採用しています。昌景にあやかったのかもしれませんね!

武田信玄の西上作戦と山県昌景の最期

元亀3年(1572年)10月、武田信玄信玄は「西上作戦」を開始しました。

武田信玄

昌景、お主は別動隊を率いて三河に侵攻しろ

山県昌景は軍事的才能が非常にあり、信玄の右腕となって別動隊を任され、徳川領三河に侵攻します。

そして同年12月22日に三方ヶ原の戦いがあり、徳川軍を蹴散らしました。

この時の山県昌景の戦いぶりは凄まじいもので、

徳川家康

さてもさても恐ろしき軍団かな

徳川家康に自決の覚悟をさせたほどでした。

徳川軍最強の武将本多忠勝とも激闘し、最終的には蹴散らしています。

戦いは武田軍が大勝利しましたが、元亀4年(1573年)4月12日に武田信玄が信濃伊那郡駒場で他界してしまいました。

武田信玄

昌景、勝頼を補佐せよ

武田信玄は山県昌景に後継者の武田勝頼を補佐せよと遺言を残したため、勝頼に忠誠を尽くしました。

武田信玄の死後の山県昌景

武田信玄の後継者勝頼は勇猛果敢な武将で、織田信長の領国東美濃、徳川家康の領国遠江、三河に攻めこみ、父信玄以上に領地を拡大しました。

しかし山県昌景と武田勝頼との関係は、余り良くありませんでした。

山県昌景

勝頼様の側近の跡部勝資と長坂光堅は単なる文官だ。戦のこと等何も分からぬくせに生意気言いおる

山県昌景は勝頼側近とも相容れぬ関係となっていました。

・一門衆  穴山信君  武田信豊 武田信廉

・側近   跡部勝資 長坂光堅

・宿老   山県昌景 馬場信春 内藤昌豊 高坂弾正

武田軍は一枚岩ではなく、勝頼も家中をまとめるのに苦労していたことでしょう。

このようなバラバラな状況で、武田軍は天正3年(1575年)5月に長篠で戦わなければなりませんでした。

ですので意見の対立は、充分にあったと思います。

この時山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らの宿老は武田勝頼に長篠から撤退することを進言したとされています。

しかし勝頼の側近の長坂光堅らが決戦を主張し、勝頼も宿老たちの意見を退ける形で側近に同意、戦いが開始されたとしています。

ともあれ山県昌景は左翼を任せられ、徳川勢と激闘を開始する。

ここでも勇猛果敢な戦いをしましたが、敵の鉄砲隊に苦戦!

そして激闘の中、全身に17ヶ所も被弾してしまいます。

しかし、それだけ被弾しても落馬せず、采配を口に咥えたまま絶命したとされています。

画像

長篠の戦いで、主君山県昌景の首を持ち帰ろうとする

山県家家臣志村又右衛門の図

山県昌景がどんな人かを簡単にわかりやすくまとめてみた

いかがでしたでしょうか!

山県昌景がどんな人かをわかりやすくまとめてみました。

武田家最強の武将でござるのう。

この記事のまとめは以下の通りです。

・武田家随一の猛将だった

・三方ヶ原の戦いで、徳川家康を死を覚悟させる程の猛攻をして追いつめた

・武田勝頼の側近とは仲が良くなかった

・長篠の戦いで奮戦の末戦死

山県昌景は魅力的な武将なので、この記事を通して少しでも関心を持つ方が増えれば幸いです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。